オフコース論①アコースティック期(1970~1975)
今回はワタクシに多大な影響を与えてくれた「オフコース」についてお話しいたします。長くなりますので3回に分けたいと思いますが、グループの歴史や背景を語りだすと話が多岐に及んでしまうので、ここでは音楽的なことを中心にお話したいと思います。オフコースについては他の方もたくさん書いていらっしゃいますので、細かな歴史については違う方のページをご覧になると良いと思います。
オフコースは大きく3期に分けられます。
小田和正、鈴木康博のアコースティック・デュオ時代。
5人のロックバンド時代。
4人のロックバンド時代。
今回はアコースティック・デュオ時代のお話となります。
と言いながら、早々に注釈が入るのですが、実はオフコースは1973年のファーストアルバムが出るまでの間、メンバー変遷の激しいグループでした。デビュー曲から次のシングルは3人(しかも小田、鈴木両氏以外の1人はそれぞれ違います)、その次のシングルは4人、その後2人になるという変遷を辿ったのです。
オフコースは小田和正、鈴木康博、地主道夫の3人が横浜の聖光学院高等部在学中に結成され、PPMやブラザースフォアといったモダンフォークをコピーするグループでした。大学進学後も活動を続け、1969年のヤマハライトミュージックコンテストで全国大会2位になり、レコードデビューを果たしたのでした。
デビューシングルからファーストアルバム発売まで
デビュー曲は1970年4月5日発売の「群衆の中で」という曲で、同じコンテストの作曲部門で入賞した人物の曲でした。レコード会社は東芝音楽工業。東芝EMIの前身、しかしその東芝EMIも今や無くなってしまい、隔世の感を禁じえません。ちなみにオフコースとワタクシは同い年ということになります。
この曲はおそらく、2チャンネルにまとめられたバッキングの音源に、3人が同時に歌い録音したものだと思われます。3声のコーラスですがダビングの形跡はなく、定位も変化することなく置かれています。多重録音の機材も方法論も既にあったのでしょうが、歌を録音するということについてはまだ一発録りが主流だったのでしょう。尤も、コンテストで2位になったとは言え、よく分からない若者に時間もお金も掛けられませんから、録音は簡単に済ませたというのが本音ではないでしょうか。
その後、正式に音楽事務所とアーティスト契約を結び、2枚目のシングル「夜明けを告げに」、3枚目に「おさらば」という曲をリリースしますが、ここまでの曲はメンバーのオリジナル曲ではなく(「夜明けを告げに」のB面は小田和正作詞・作曲の「美しい世界」でしたが)、与えられた曲を歌っていただけでした。本人達も含め、オフコースというグループをどうすればいいのか、どうしたいのかを模索していたのだと思います。
その後、所属事務所が解散することとなり、オフコースの2人は杉田二郎氏と共に音楽事務所、(有)サブミュージックを設立します。そこでようやく1973年6月に、ファーストアルバム「僕の贈りもの」がリリースされるのでした。
僕の贈りもの
「僕の贈りもの」はステューダーの16トラックマルチレコーダーを使用した画期的なアルバムでした。ライブでは2人ですから物理的に2声のハモリしか出来ませんが、多重録音であれば関係ありません。16トラックという制約はありますが、本当に足りなければピンポン録音(バウンス)すればトラック数は稼げます。このファーストアルバムの清々しさは、自分達の音楽を思う存分に表現出来るという喜びに満ちているように感じます。
オフコースの1枚目は、完全にアコースティック路線でした。フェンダーローズやエレクトリックベースは使われているものの、エレキギターは全く使用されておりません。アコースティックギターである、ということに拘りがあったように感じます。
収録曲は小田さん6曲、鈴木さん5曲の計11曲で、基本的には作曲者がリードボーカルを取る形になっていますが、多くはユニゾンで歌われており、それがツインボーカルという強みになっています。しかし小田作の「さわやかな朝を迎えるために」だけ鈴木さんがリードボーカルになっています。また、ライブでは小田作「水曜日の午後」も鈴木さんのリードボーカルになっており、誰がリードボーカルを取るのかということには、それほど拘りは無かったように感じます。当時は「どちらが作ってもオフコースの曲」という認識だったのかもしれません。作者がリードボーカルを取るのが良い、と進言したのは当時のディレクターだった橋場正敏氏です。橋場氏はアリスのディレクターでもありました。その後橋場氏とは一悶着あるのですが、その提案はその後のオフコースにも生き続けたということを考えると、それは橋場氏の功績かもしれません。
この道をゆけば
1974年5月には2枚目のアルバム「この道をゆけば」がリリースされました。このアルバムではオフコースとして初めてエレキギターが収録されました。とは言っても、曲のニュアンスは1枚目を踏襲しており、いきなりロックになったということではありません。ただ、フォークソングと言い切れないほど音楽性はバラエティに富んでおり、「新しい門出」や「のがすなチャンスを」などはソウルミュージックの雰囲気を醸し出しています。バックミュージシャンには高橋幸宏、村上秀一(PONTA)、小原礼、大村憲司など、超一流の凄腕ミュージシャン達が起用されました。尤も、今でこそ錚々たる面子ですが、当時は皆まだ若く、同じ黎明期を過ごしていた仲間達だったのではないでしょうか。
当時は様々なアーティストが一緒にツアー(という言葉すら無い時代でしたが)を廻るという時代で、夜は皆で高橋幸宏氏の部屋に集まり、怪談話などをしていたそうです。ある日、皆で「コックリさん」をやったところ、「オフコースの次の曲は何というタイトルが良いですか」という質問に、コックリさんは「WAKASUGITE」と答えたそうです。それで皆が盛り上がり、「そのタイトルで書くしかないよ!」となって、鈴木さん2曲、小田さん1曲の「WAKASUGITE」が出来たそうです。小田さんの曲は没になったそうですが、鈴木さんの2曲は「すきま風」「若すぎて」という形になり、このアルバムに収録されています。
このアルバムは制作期間が長いように見えて、スタジオ使用時間数は150時間に満たなかったということでした。ディレクターは2時間で1曲を仕上げるよう指示し、熟慮も手直しも出来ない状況だったといいます。ビジネスとして効率を考えるならば正論と言えなくはないですが、音楽を文化として捉えれば、効率では図れないものがあります。この時期のオフコースはライブが大盛況だった訳でもなく、レコードが売れていた訳でもなく、CMの仕事でなんとか食つなぐという状況でした。つまり、味方がそう多くいた訳ではなかったのです。そんな中でのディレクターとの軋轢。この頃の心情は小田さんの「首輪の無い犬」という曲で伺い知ることが出来ます。この曲は小田さんの真実の声だったのでしょう。そして事件が起こります。
忘れ雪事件
1974年10月20日、シングル「忘れ雪/水いらずの午後」がリリースされます。この曲は2人のオリジナル曲ではなく、東芝が外部の作家に依頼して制作したものでした。このシングルに関しては「気に入らなかったら出さなくてもいい」という条件でレコーディングをしましたが、東芝はオフコースの意志を尊重することなく、リリースしてしまいました。
「忘れ雪」は当時大ヒットしていたグレープの「精霊流し」に似た雰囲気の曲で、なかなか陽の目を見ないオフコースを売るために、柳の下のドジョウを狙ったものと言えるでしょう。そのシングル発売直後の10月26日、オフコースには中野サンプラザでの単独のコンサートという、大きなイベントが控えておりました。中野サンプラザは当時のオフコースとしてはとてつもなく大きな会場で、次のステップに繋げる大切なイベントだったのです。そのコンサートのためにバンドもストリングスも入れ、ライブ録音する予定になっていました。この時のライブが3枚目のアルバム「秋ゆく街で~オフコース ライブインコンサート~」となっています。
しかし、オフコースはそのコンサートで、発売されたばかりのシングル「忘れ雪」を歌いませんでした。ハナから演奏メニューに無かったのです。それはディレクターの逆鱗に触れました。その曲を売るためにディレクターは作家に頭を下げて依頼をし、営業マンはラジオ局を駆け回り、宣伝マンは色々手段を講じていたかもしれません。「あいつら、生意気だ!」とオフコースは所属レコード会社を敵に回してしまいました。しかしオフコースの2人にしてみれば、「気に入らなかったら出さなくてもいい」という条件だったのに、ということでしょう。結果的にオフコースは橋場ディレクターと決裂し、東芝EMI第一制作部を追われる形になってしまいました。
武藤氏との出会い
オフコースは第二制作部に移り、担当ディレクターは武藤敏史氏に交代しました。武藤氏はバンド、ザ・リガニーズの元メンバーで、バンド解散後はNHK交響楽団に入団するはずだった人です。他アーティストの現場では、ディレクターでありながらも編曲もこなしてしまうという才人でした。のちの寺尾聡氏のディレクターも務め、かの「ルビーの指輪」を収録したジャパニーズAORの傑作「Reflections」は武藤氏のプロデュースによるものです。そんな武藤氏との出会いが、オフコースを大きく変えました。人との出逢いとは本当に大切です。一期一会を大切に。
ワインの匂い
武藤氏との共同作業は、4枚目のアルバム「ワインの匂い」からになります。このアルバムの制作は、小田鈴木両氏に衝撃を与えました。何が衝撃だったのか。それは「自分達が納得するまでスタジオを使ってもいい」、ということでした。「1曲2時間で仕上げろ」と言われていた前任者とは大違いです。武藤氏自身「今日はノラないからやめちゃおう」と言うこともあり、小田さんは衝撃を受けたといいます。そんなレコーディングは500時間を超え、初めて小田鈴木両氏が納得出来るアルバムが出来たのでした。
拘りを示す面白いエピソードがあります。「愛の唄」という曲は、エンディングのサビは1回繰り返すだけだったのですが、レコーディングが終わった後、小田さんから「最後のサビをもう一回繰り返したい」という要望があり、武藤ディレクターは悩んだ末に、マルチトラックレコーダーに該当部分をダビングし、それを元のマスターテープに挟み込み、繰り返しを2回にしたのです。出来上がりを聴いたドラム担当の矢沢透氏は「あの曲、なんか変じゃない?」と小田さんに聞いたそうですが、事の真相を告げると「そうか!それで同じフレーズを叩いているのか!」と苦笑したとのこと。矢沢氏のポリシーとしては、「1曲の中で同じフレーズを叩かない」というものがあるそうなのですが、ダビングですから見事に同じフレーズが登場しているという訳です。その話を聞いてから改めてこの曲のその部分を聴くと、どのように繋ぎ合わされたのかが想像出来て面白いです。普通に聴いていれば全く自然なんですけどね。
音楽的な挑戦も随所に見られます。「雨の降る日に」では歌い出しからいきなり転調、エレピとピアノが違うフレーズでバッキング、「倖せなんて」での間奏の変拍子、「憂き世に」での表拍かと思いきや裏拍など、様々ことが実験的に試されています。
このアルバムからはシングルヒット曲も生まれています。「眠れぬ夜」がシングルチャート最高位48位、4万6千枚を売り上げました。この曲は元々バラードだったのですが、武藤ディレクターのアイデアでテンポを速くし、リズムのあるポップな曲になったのでした。ここでのアイデアが、後のオフコースに大きな変化を与えることになるのです。アルバム「ワインの匂い」はアルバムチャート最高位62位となり、それまでチャートには無縁だったオフコースにとって快挙となったのでした。
2人時代はここまでとなります。
以降、楽しみにしていてくれると嬉しいです。
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