澄 一話

 闇、どこまで行っても闇だ。目の前を照らす車のライトと遠くにぽつぽつと見える町の街灯以外、光というものがない田舎道。英央は母の運転する車に揺られながら、ぼーっと闇にさざめき立つ木々を眺めていた。座るところはいつも後部座席。はしゃぎながら助手席に座っていた頃が今となっては懐かしい。
 いつからだろうか。英央は十二年ほどしかない人生を振り返る。小学校四年生ぐらいになったあたりだろう、今日のように塾に通い始めた頃からだった。
 初めて行った塾にいる子供達は皆、ぴりぴりしていて、英央は心細かった。それでも、一生懸命に勉強した。二、三時間頑張って、母の顔を見た時ほっとした。駆けて行って、助手席に飛び乗った。母に話を聞いて欲しかった。別に塾が嫌だったわけではない。話を聞いて欲しかっただけだ。笑顔で塾の感想を話し出したら、
「塾へは遊びの為に行かせてるんじゃないわよ」
と冷たい声で突き放された。
「これからの時代は大変なの。兎に角、勉強しないとホームレスになっちゃうわよ」
 英央は何も言えず黙り込んだ。ただ泣いたのを覚えている。
 そのことがあってから、助手席に座ると母の冷たい顔が思い出されて後部座席に座るようになった。母はそれについて何も言わなかった。会話もない。車中ではずっと俯いていた。母親と話したいと思うのだが、また突き放されそうで怖かった。
 英央は母の揺れるイアリングを見つめた。
(何を考えながら運転しているんだろう)
 毎回、俯いていた英央だが今日は気持ちに余裕があった。先週の試験結果が発表され、県で三位に入っていた。何かをやり遂げた気分になった。数字で示されることは誰も文句をつけようがない。塾では嬉々としていたものの、車に入ると鬱々とした気分になるのはなぜだろう。英央はこの重苦しい空気をどうにかしたかった。
 ふいに前方に灯りが見えた。
 今までは俯いていたせいで気がつかなかったが、珍しく街灯がある。街灯はそれが使命であるかのように、鳥居を照らしていた。黒々と波打つ木々の中にぽっかりと浮かぶ鳥居。神社の入り口だろうが、その向こうはぽっかりと闇が空いていて、一歩踏み込めば吸い込まれそうである。
「あんな所に神社があったんだね」
 英央は思わず呟いた。
「そんなもの見なくていいわよ」
 母が冷たく言い放った。車は鳥居の前をゆっくりと通り過ぎた。
 英央は首を回して鳥居を眺めた。
 丁度、長い黒髪の少女がそこに佇んでいるのが見えた。
 少女もこちらを見ていたらしく、目が合った。
 英央は思わず目を逸らした。気のせいか少女がにやりと笑った気がしたのだ。心臓の動悸が速くなるのを感じながら、さっきの少女が幽霊でない事をひたすら祈った。
「おかえり」
 朱美が出迎えた。英央はこの二つ年上の姉を見るとほっとする。友人達から聞く姉像とは大分異なり、何かと自分の味方になってくれる頼もしい存在であった。朱美の性格は父親譲りなのかもしれない。
 テーブルには無愛想にラップに包まれたカレーライスが置いてある。鍋はもう洗ってしまったようだ。
(昨日の残りか……)
 しかし、不満を顔には出さずにラップを剥がすと電子レンジに突っ込んだ。英央の向かい側にはアイスコーヒーが置かれている。
「もう食べたの?」
 朱美は笑った。待ちきれなくてねと手を振る。
「先にね。これは食後のコーヒー」
「そんな苦いモノよく飲めるね」
「慣れると、おいしいよ?頭が良くなる気がするし」
 実はシロップが三個入っているけどね、と朱美は心の中で続けた。
「ふうん」
 英央はカレーにスプーンを差し込んだ。先ほどの神社がふと甦る。あれは見てしまったというものだろうか。
「あ、冷たっ」
「ふふふ、隙あり」
 いつの間にか背後に回った朱美がアイスコーヒーのグラスを英央の首筋にくっつけていた。
「いきなり何すんだ」
 幽霊を見たと思ったところに、これがきたものだから英央は変な汗が噴き出てきた。
「何か考え事をしている風だったから、和ませようと思って」
 朱美は笑った。
「またお母さんにキツイことでも言われてへこんでいるんじゃないかと思ってさ」
「いや、そんなことはないよ」
「じゃ、どうしたの?」
「しつこい」
 不意打ちで心臓がバクバク鳴っているのを収めるためにカレーを頬張った。一晩寝かせた味だが、やはり鍋で温めたかったと思う。
「いつになく真剣な眼差しで考え込んでいたからさ、おせっかいなお姉ちゃんは心配になってしまったのさ」
 英央はこりこりと頭を掻いた。
 いくら姉とはいえ、話すのは気恥ずかしい。幽霊を見てしまったと言ったら、今日は一緒に寝ようかとも言い出しかねない。謎の真相究明を姉に相談するのは少し気が重かった。
「弓取川のところにさ」
「うん」
「神社ってあったっけ?」
「あー……」
 朱美は人差し指を顎に当てて天井を見る。
「詳しくは知らないけれど、秋祭りとか仕切ってる神社だね。私も境内までは入ったことはないけど。屋台は鳥居の外に広がっているからねぇ」
「へぇ」
 心霊現象等の類は噂にはないらしい。
「そこがどうかしたの?」
「いや、帰りの車の中から見てさ。ちょっと気になったから」
「ふーん」
「特別な意味はないんだけどね」
「夏休みに行ってくれば?」
「え、またお母さんに叱られるよ」
「何か気になるものでもあるんでしょ。黙っていけばいいのよ。ちょっとぐらい冒険しないと碌な男にならないわよ」
 朱美は英央の背中をバンと叩くと、アイスコーヒーをぐいと飲み干した。
「お母さんがいない日に一度行ってみようかな」
「そうしなさい」
(今日見たあれが幽霊かどうかも分からないのに)
 英央は洗い桶に皿を放りながら首筋に寒気を感じた。

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