非指向型(non-oriented)世界と未来予想試論

海外留学の授業前から、Pre-assignmentとして、400語くらいの文章をつくりなさいみたいなお題が出たんだけど、いきなり「未来の主要な要素はなんですか」みたいな問いで、マジメに悩み込んでしまった。

色々考えた結果、やはり非指向型(non-oriented)世界観へのパラダイムシフトが極めて重要な気がしてきた。

non-orientedについては以下に(漢字、自分の中でまだ定まってない)。

当然来るべき変化は、見田宗介が「プラトー」と呼んだ地点へと私たちがたどり着いたことだ。そのパラダイムシフトを彼は「有限性」の知覚、みたいなことを書いていたと思う。

そこで、私たちが依って立つ基盤自体が大きく更新を迫られることになる。―もう成長することはない。する必要もない。人口は増えない。よりよい未来が来るかは割と微妙だ。

こうした立脚点において私たちは、いわば「向かう世界(oriented world)」から、「向かわない世界(non-oriented world)」への存在論的パラダイムシフトを迫られる。

何もかもが「未来を」「理想を」「幸福を」「夢を」目指して「向かってきた」世界から、向かわない世界へ。

そのパラダイムシフトがもたらす未来像について、少し考えてみる。あまりきれいな論理構造になってないですがご容赦を。

1. 線形から非線形へ

これまではoriented=直線的な(linearな)思考が強かった。あるゴールが設定され、そこに向かうシステムが長らく形成されてきた。

線形linearから非線形non-linearへ。これが大きな一つ目の変化だ。

1-1. 個人レベル:キャリアパスにおける"さまよい"の重要性の高まり

「生き方が多様化している」みたいな話はよくあるけど、これは「色々なことを」「選択している」という以上に、「やってみる」「試す」「さまよう」ということへの(=non-orientedな)大きな変化がある。

これは個々人の心理的なインセンティブと関わりが深い。

これまでの成長を前提とした世界観のもとでは、はやく選択し、はやく"ゴール"へたどり着く(人生すごろく的な)ことがより"正解"だった。…そこに過ちはない。絶対にそうすべきだという前提があった。

それがいまは崩れている。私たちは一体どこへ"向かって"いるのか?という疑念と、いつまでも状況の変わらない閉塞感は、これまでの価値観に対して、え、なんかこれでいいんだっけ?という疑問の中で、希望を放擲するか、今はない(見えていない)方へとさまようか、という選択になってくる。

あとは個々人の潜在意識の中ではさまよいたいという希望がある人が増えてくるなかで、社会常識やリスクとの兼ね合いの中で、選択肢を選んでいくことになる。

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こうした状況の中では、「さまよい」を後押しするシステム System which empwoer "wandering" の重要性が増してくる。

すなわち、

・学費(とりわけ大学の学費)の無料化
・リカレント教育(生涯教育)の設計
・流動性の高い人材市場
・生活コストの安い(あるいはかからない)プラットフォーム

といったことの重要性が増してくる。

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フィンランドでまなんでいて、「さまよいのデザイン」が進んでいるなと強く感じる(ちょっとモラトリアムすぎるのでは?とも感じる、普通に)。


学生の間に、長期でインターンをしたり、NPOにボランティアしにいったり、学生のまま社会人として入社してみたりしながら、自分が一番気持ちの良い場所を探すのだ。日本とどちらが「自分にとって気持ちいい場所」で働けているだろうか、と考えてみれば、(統計を見たわけじゃないけど…)その結果は明らかだろう。

また同様に、リカレント教育も盛んだ。実際、キャンパス内には保育園なども整備されていて、子連れの大学院生も(ほんとに)少なくない。

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未来予想とかいって、もう今ある話をしてしまった…。あかんな。

「ゆるい移住」なんかは、実は日本における「さまよいのデザイン」のひとつ実験的で先進的な事例だろう。すなわち、日本の都市-地方の生活コストの差を利用することで、地方を「さまよいの空間」として位置づけるのだ。

そういうような空間が他国にあるかはわからないけれど、一種学費無料が、同じような役割を果たしているような気もする。

1-2. システムレベル:自律分散型システムへの変容

成長がとまり、むしろ人口は減少していくという状況のなかで起きてくるのは、「もう支えられませんよ」という状況だ。既に何度も、安倍総理時代から、「自助」という言葉を聞いた。この国は「自助」=もう国民を支えられない国になってしまったのだなという気持ちになる。でもこれはもうしょうがない変化だ(でも総理がそういうことを言うべきではない。それは全ての責任を放棄したに等しい)。

ではどうすべきか?分散して、自律するしかない。間違いなく、というか割と既にやってきているのが自律分散型システムへの移行(Transition to the autonomous decentralized system)だ。

変化はすでに、経済的な範囲の中で持続可能性 Sustainability という言葉や、循環経済 Circular Economy、あるいは定常経済 steady-state economy といった言葉としてあらわれてきている。

こうしたシステムレベルでの変容圧力が、以下をもたらす。

1-2-1. 地方分権

地方分権 Decentralization of power 。自律分散型システムの最たる例だろう。

僕は道州制も起こると思ってる。ちょっといつ起きるかわからない、相当ドラスティックな変化になると思う。

恐らくここでは、自律分散とはいいつつ、分散と統合とが同時に起きるようなプロセスが起きていくと思う。すなわち、(僕は好きじゃないが)再度、大きな市町村統廃合があるだろう。そして、県または道州が強い権力を持つようになるだろう。

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あるいは、ここでもうひとつドラスティックな方向へ向かうとすれば社会主義への変化だ。いま、日本は非常に非民主的な(独裁的な)国家だと僕は思うし、今も人々が気づかない(人々に気づかせない)間に急進的にそちらに向かっていると僕は思っている。

1億を超える国家を運営するにおいて、道は2つに1つだ。ひとつは極めて中央集権的なアプローチで、強力なリーダーシップを持って、一気に人々を動かす国家。中国がこれだ。

もう一つは連邦制、アメリカ。人口が3億人いるアメリカでは、州ごとに警察があったり、法律があったりする。つまり、同じパスポートで行き来できるけれど、すごく別の国みたいなもんなのだ(行ったことないけど)。もちろん連邦全体の憲法とかもあるけど、ある意味、その強力な地方分権によって、社会の変化に俊敏に反応しながら国家(というか州)運営をすることができている。

日本は今中途半端で、1億3000万人いて、でもそんなに中央集権しきっているわけでもなく、地方分権しきっているわけでもなく、この状況では社会の変化についていけないのは当たり前なのだ。

で、たぶんどっちかに行くのだが、恐らく連邦制(道州制)への変更は相当な革命が必要で、正直生きてる間に起こるとは思えない。その意味では、意外と超独裁的な「骨抜き民主主義国家」みたいになるのかもしれない(もうなってる、と思うが)。

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ま、どちらにせよどちらかへの変容はあって、地方分権はまさに、ピラミッド的な直線的方向性から、むしろそれを分散させるような営みだ。しかしnon-orientedなパラダイムシフトが、社会の隅々まで行き渡るような変化が起きていくのだとすれば、それは地方分権を意味するだろうと思う。

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ところで、ここで市町村合併などが起きるプロセスの中で、極めて重要になってくるのが「終わりのデザイン Design for the End」だ。人口減少社会は、必ず何かを「終わらせなければならない」社会に等しい。しかし、まちを「終わらせる」ことは非常に難しいだろう。コンセプトシティというテーマが提出されて甚だ久しいし、僕もいいコンセプトだと思うけど。

広がってしまった都市を、よっしゃ閉じよう、と言って閉じられるか?そこに住んでいた人はどう思うか?

無理だろう、どう考えても無理な未来しか見えない。しかしここで、終わりと向き合っていくデザインの重要性は極めて高まっている。例えば棟上式ならぬ棟下式、なんかは終わりのデザインの重要な例だろう。

また、最後の一世帯になってしまった集落や、なくなってしまう伝統産業、方言・民謡をアーカイブしていくような活動体も、これから重要になってくるだろう。補助金を投入してゾンビのように生きながらえらせるのではなく、きちんとアーカイブして、参照できるようにする……。極めて難易度の高い仕事だが、同時に極めて重要な仕事になってくるだろう。

1-2-2. 自己完結化、循環経済化

人口が減って、支えられませんよ、がもたらすのは、「じゃあ自分たちでやるしかねえ」への変化である。これが、線形linear→円形circularへの変化をもたらすだろう。

特に大きな変化はエネルギー/インフラの変化になるんじゃないかと思う。すなわち社会インフラを行き渡らせ、維持する力量がなくなってくるとき、エネルギーの自活が非常に重要になってくるだろう。

小水力発電や、地域電力の広がりは、既にその萌芽を示している。

そして、更に精神的にインパクトのある変化が、「つくることの民主化」Democratization of makingだ。

これまで、ある意味「行政にアウトソースしていた」業務を、自分たちで担わざるを得なくなる。これがいいか悪いかはわからない。恐らく、それは都市集住を更に加速させるだろうが(要するに、町内会の行事がめちゃくちゃ増えるってことだから…)、一方で分散残存した地方都市は、自分たちでつくる能力をどんどん身につけていくだろう。それは発展途上国と先進国という意味では退行になるのだろうが、ある意味では極めて民主的な営みだとも言えるのかもしれない。

2. 分ける divide から溶ける melt へ

「わからな」くなっていく。これが重要な変化だ。

これはある意味、極めて資本主義的で西洋主義的な(別にdisっているわけではない)価値観からの、non-orientedパラダイムシフトがもたらす大きな変化だ。

すなわち、論理(ロゴス)から縁起(レンマ)への―一即多、多即一的な、東洋哲学へのトランジションである。

そもそも、私たちの営みは極めて「わけられない」ものだ。

まなびは生活の中にもあり、ケアは生活の中にもあり…。しかしこうした営みを私たちは、先鋭的に学校に切り出し、医療・福祉施設に切り出してきた。そして労働は会社(工場)へと。こうしたアウトソース、すなわち家の中にあった作業を、外側に「金銭的な交換価値」に切り替えることがGDPを押し上げてきたことを誰かが指摘していた(ジョアン・トロントかな)。

しかし、人口減はたちまちこれを機能統合していくことになるだろう。あるいは既に、コロナがそれを牽引しているかもしれないが。

企業・組織レベル:すなわち、企業や施設は「学校でもあり、福祉施設でもある」とか、「本屋だしカフェだし雑貨屋」とか、「企業だし保育園でもある」とか、そういうことがめちゃくちゃ増えていく。「ここはなんの施設なんですか?」「いや、説明が難しいんだけど…。」これだ。

この融解 melting は、かなり重要な文化的変化を導くはずだ。すなわち、「分ける/分かる」から、「分からない」ということへの変化だ。

私たちはそもそも、本質的に分かられることは不可能だ。しかし、概念が分節化していくに従って、「私は男であり、学生であり、日本人だ」みたいな、いくつかの概念の層として定義づけられ、それを内面化することが当たり前になってしまった。しかし本質的に、私たちはそういった肩書で説明されきることは不可能であって、その意味において、社会における心理的安全性を担保する意味で、meltingにおける「分からない」ということは極めて重要なことだ。

わからない社会。

個人レベル:例えば個人ベースでは、若い層や地方部で、「肩書をうまく言えない」人が増えてきた。それは肩書を名乗るのがださいとか、言えないというより、わからない、少なくとも既存の言葉に当てはめることが難しい、ということだ。それはライターとWEBコーダーをやっていますという、わかりやすいレイヤーの重ね合わせで説明できる話ではない。ライターは確かにライターなんだけど、それよりもむしろそのライティングの中で生まれる関係性を人とつなぐようなことをやっている人は、ライターだがライターではない。そういう、それぞれの仕事のなかにある個人性(西村さんの「自分の仕事をつくる」のパン屋さん・ルヴァンでも、「パンの切り方は同じにならなくていいです」みたいな話をしていたと思う)がこれからは際立ってくるはずで、そしてその際立ちはつまり、わからないのである。

関係性レベル:それはまた、関係性に対しても言えるだろう。LGBT、選択的シングルマザー、事実婚、ポリアモリ、リレーションシップアナーキー…といった一連の「関係性的」語彙の増加は、「わからなさ」、divideされたいくつかの片鱗からなる存在ではない、統合的で、meltingな存在であるということを示していると言えるだろう。

3. まとめ

未来!とかいって割と既にあることばっかりですごく反省した。20年後くらいには当たり前になってる(といいな)と思います。

こんな感じ?

【非指向性(non-oriented)世界観】
◯linearからnon-linearへ
 - さまよいの重要性の高まり
 - 自律分散型システムへの変容
  - 地方分権と終わりのデザイン
  - 自己完結化
◯divideからmeltへ



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