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ヘルシンキを地理学的に読み解こうとしてみる

しばらく、フィンランドのことがよくわからないでいた。ヨーロッパのまちを、しっかりと観察するのはこれがはじめて。

基本的にほぼ自分用メモみたいに書いてるのでアレですが、おそらく3〜5あたりがなんとなく歴史〜地理の話をしています。7の個人的なヘルシンキ解説はちょっとまだ暫定版ですが、割と何かが見えてくるかもしれない(俺が)。

とりあえず7で記載しているヘルシンキの森的マップ暫定版を置いておきます。

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※フィンランド全体の地理=フィンランドが一体どんな地形になっていて、どの都市がなぜ発展したのか?に関する記事を以下にて記載しています。

1. ここまで:ヨーロッパのまちがわからない

日本なら比較できるリソースがたくさんあるから、google mapを見ればほぼ、更に現地を見れば間違いなく、ここが伝統的なまちなのか、郊外なのか、ニュータウンなのか、商業地域なのか、政治的な地区なのか一瞬でわかる。

しかしヨーロッパのまちは空から見てもさっぱりわからない。同じような構造が幾何学的に並んでいて、何が重要で、何が重要でないのか、一体どんな違いがあるのか、どこがどういう地域でどこがどういう地域なのか、さっぱりなのだ。

ちなみにここまでのつぶやきはこんな感じ。



しかし、地理学の基本は現場百遍。というわけで、今日は地理学の目を持って、ヘルシンキを観察してみることにした。

結果、かなりわかった。何がわかったのかをアウトプットしておく。

2. ヘルシンキのまちの成立(1550〜1812)

ヘルシンキは珍しいまちだ。

多くの国の首都は、例えば城や教会など、重要な建築物や機能があり、その歴史的な文脈が物理的・心理的な支柱になって、首都域が形成される。

しかしヘルシンキが形成されたのは比較的最近のことだ。

もともと、フィンランドはスウェーデンに支配されており、その中枢機能は西部のトゥルクが長らく担っていた。

ヘルシンキに首都が移転したのは1812年のこと。フィンランドがスウェーデンからロシアに支配権がうつった(1809年)のをきっかけに、1812年、ロシアが首都をヘルシンキに遷移させたのだ

(フィンランドの独立は1917年とかなり最近。フィンランドは、ヨーロッパとロシアに挟まれ、常に精神を擦り切らす立ち振る舞いを迫られてきた小国。スウェーデンやロシアに支配権を握られながら、アイデンティティを育んできた。)

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なぜロシアは、トゥルクからヘルシンキへと首都を遷移させたのか?地図を見ればわかる。

ストックホルムから最も近いフィンランドが旧首都「トゥルク」であり、ロシア(=ここではサンクトペテルブルグ)から最も近いフィンランド(で、割と発展していたまち)がヘルシンキだった。

ロシアとしては、スウェーデンからフィンランドへの影響力を弱めたい、という意図もあった。

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さて、ではヘルシンキのまちそのものの成立はいつだったのだろうか?

既に10世紀頃から開拓自体はあったとされ(花粉分析による)、14世紀の史料には既に、この地にタヴァスティアン人( https://en.wikipedia.org/wiki/Tavastians )の集落があったことが示されているとのこと。

最初の開拓がはじまったのはヴァンター川河口、下記のKoskela周辺部である。ヴァンタ川のそばにあり(=淡水が得られ)、かつ河口部(=漁と貿易ができる)場所である。

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以下は1645年の地図だが、ヴァンタ川河口部(地図上部)に当時の村落が残っていることがわかる。

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(出典: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helsinki_map_1645_Vanhakaupunki.jpg 、元データを探せなかった。)

ヘルシンキの名前の由来は諸説あるようだ。

初期ヘルシンキが成立したKoskelaはスウェーデン語では「forsby」と呼ばれ、これは「急流」を意味するという。更にヴァンタ川は、当時Helsingå川と呼ばれていたのではないかとのこと。ここから今のヘルシンキ(スウェーデン語で「Helsingfors」)という名前につながっているのではないかという説があるらしい。

しかし、国土全土が標高200mに満たないフィンランドで「急流」という言葉は、いかにもふさわしくないなあ。

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こうしてスウェーデン王によって、主にエストニア=タリンへの対抗のためにつくられたヘルシンキ村だったが、当時は全く繁栄しなかった。その後、村は1640年ころに現在の位置(ヴィロンニエミ半島)へと移動させられる(理由は追っていない)。

その後下記1696年の地図で見られるように、現在のSenate Squareから、ロシア正教の教会Uspenskin katedraaliあたりまで、小さなまちが広がっていたようだ。小さな小さなまちだ(1645年ものと相違がある。恐らく1645年のものは計画のように見える)。

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(出典: フィンランド国立図書館、 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helsinki_kartta_1696.jpeg )


(出典:Map drawn by Carl P. Hagström between 1776-1777. Helsingfors stadsmuseum(Helsinki City Museum)所蔵。目録番号XIV-118 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helsingfors_Map_1776-1777.png

1748年以降、ロシアに対抗すべきスオメンリンナ要塞(世界遺跡で、ヘルシンキの重要な観光地のひとつ)の開発がスタート。それによって一気にヘルシンキの重要性が加速。その後ロシアとの争いのなかでまちが焼失するなどの被害を受けるが、冒頭で述べたように、1812年にそのロシアによって、首都がヘルシンキへとうつされた。

その後1827年にトゥルク大火で、首都機能を支えていた重要な施設群が焼失。大学などの機能がヘルシンキに移転したことも発展を強く後押しした。

3. ヘルシンキの都市の発展、エンゲルの新古典主義建築(1816〜)

しかし、首都にしては非常に小さいまちだったため、フィンランドの官僚・ヨハン・アルブレヒト・エレンストロームによる都市計画が目された。

(9/4修正:都市計画はEngelによるものとしていましたが、正しくはヨハン・アルブレヒト・エレンストロームによるものでした。訂正します)

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(出典:Map drawn by Johan Albrecht Ehrenströmin in 1820、ヘルシンキ市およびヘルシンキシティアーカイブ(Helsingin kaupunginkanslia / Kaupunginarkisto)所蔵。  https://hri.fi/data/en_GB/dataset/helsingin-historialliset-asemakaavakartat )

下記が1820年に承認されたエレンストロームの都市計画。現在のヘルシンキの、まさに基盤となった計画だ。

google mapから同じ部分を切り出してみると、このようになる。赤いピンが、上記のエレンストロームの計画で「十字」が書かれた場所(ヘルシンキ大聖堂)だ。エレンストロームの計画ですっぽりと空いた青緑色の空間が、現在のヘルシンキ中央駅になっている。

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以前の1645年や1696年の地図と比較してみると、現在のヘルシンキ中央駅は、相当な範囲を埋め立てられてできていることがわかる。

このエレンストロームの都市計画を実行にうつしたのが、ヘルシンキで恐らく最も重要な役割を果たしたドイツの建築家・Carl Ludvig Engel(1778-1840)である。

Engelは、まちの主要拠点の建築に大きな役割を果たした。具体的には、最も有名なのはSenate Square(元老院広場)と、それを取り巻く施設群である。

Engelが推進したのは、新古典主義(ネオ・クラシック)建築(18世紀にロココ様式=過剰装飾が流行り、その反動として18世紀後期に、荘厳さ・厳格さを求める様式として流行)だった。これはもちろん、"当時のロシア的な様式"でもあっただろう。

具体的な建築を見てみよう。

下記が元老院広場とヘルシンキ大聖堂。

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こちらがフィンランド政府庁舎(Government Palace)だ。

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ヘルシンキでのEngelの建築物は、黄色い壁、白い柱と特徴的なファサード(三角△のやつ)で、すぐにそれとわかる。

この元老院広場を中心とした一角、および新古典主義様式による建築物群が、近代ヘルシンキにおける最古級の建築物群だと言える(いわば日本で言う「古い町並み」って感じだ)。これらEngelが設計した施設には、現在のヘルシンキ大聖堂、フィンランド国立図書館、フィンランド政府庁舎、ヘルシンキ大学本館、ヘルシンキ市庁舎、大統領官邸などが含まれる。結果的に、このあたりの一角がいわゆる「霞が関」的なエリアになっている

周辺のEngel建築は3階建て(といっても、高さは現代建築の4階分くらいはある)程度に統一され、ヘルシンキ繁華街の町並みと比べて、空が広く感じる。

代表的なものを地図に書き出すとこんな感じ。結果的に博物館等も集積しているため、観光地として多くの人が訪れるスポットになっている。

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ちなみに1837年のC.W.Gyldenによる地図。「フィンランドの最初の統一地図を作成した」人として、彼の名は記憶されている。

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(出典:Map drawn by Claes Wilhelm Gyldén (1802-1872) in 1837. Department of History and Ethnology, Publication Archives of the Jyväskylä University 所蔵。 http://www.vanhakartta.fi および https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helsinki_map_1837_by_Claes_Wilhelm_Gyld%C3%A9n.jpg )

4. その他のエリアの建物

以降、上記のエリア以外は色々な建物がひしめき合っている。近代建築はもちろんのこと、

ネオルネッサンス様式(がっしりした荘厳なやつ。"正円アーチ、左右対称、水平線の強調など、ルネサンス様式の特徴を基本としつつ、中世の建築の荘厳さに各地方の新しい建築方式をミックスしたもの"  https://trendy-innovation.com/?p=11115 )とか…

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グスタフニーストロームによるHouse of the Estate(1891)。

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これとかもそんな感じ。

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アール・ヌーヴォー建築(Jugendo建築とも。これまでにない素材や、自然界的な曲線が特徴 http://trendy-innovation.com/?p=11127 )とか…

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左に見えるのが、フィンランド近代建築の雄・エリエル・サーリネンによるポホヨラ保険の建物(1901)。

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エリエル・サーリネンによる重要な建築。1919年に完成したヘルシンキ中央駅。アール・ヌーヴォー様式/フィンランドロマン主義の粋。

もう少し近代っぽいやつでは、こんな風景もある。有機的な曲線を取り入れながら、かわいい町並みが広がっている部分がある。

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あとは独立したての1920年代は北欧古典主義と言われ、材料等が不足するなか、簡潔な形でたくさんの建築が建てられた。以下のようなちゅんっとした建物がいっぱいある。

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みたいな、それぞれの建築がめっちゃ混在している。あと赤レンガのやつ。正直建築のことはよくわからないけど、恐らくこんな感じだ。

5. ヘルシンキを地理学の眼差しで歩く―高低差とヘルシンキ

まずヘルシンキを歩くとすぐに分かること。まちに、異常に坂が多い。これは地図を見ればすぐに分かるだろう。ものすごくでこぼこした大自然の上に都市を建設しているのだ。

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(データ元:Helsinki Map Service https://kartta.hel.fi/# )

その結果、どの建物の写真を撮っても、なんだか傾いたようになる。例えば以下の写真なんか好例だろう。

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大枠としてはでこぼこした大地の上にそのまま直線的な都市を建設しているのだが、そうでありつつEngelは、その高低差をうまく利用して印象的な景観を作り出している。具体的には、ヘルシンキ大聖堂のことだ(というか、実際にはEngelが活用したというより、1776年頃には既にこの地割だったのだが)。

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(データ元:Helsinki Map Service https://kartta.hel.fi/# )

上記の、茶色の濃い四角い部分がヘルシンキ大聖堂だ。見ての通り(茶色い方が高い)、ヘルシンキ大聖堂は自然に産まれた微高地を生かして、その高さに合わせて建設されている。

そのため、下から見るとこう。

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上から見るとこうなる。

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これは地上げをしているのではなく、微高地をいかし、かつ低い部分を広場にすることによって、大聖堂の存在感を高めているのである。

このあたりのエリアには、こうした地形を生かした例がいくつか見られる。例えば印象的だったのはヘルシンキ大学教育学部だ。

建物もアールヌーヴォー的でバチバチにかっこいいんだけど(建物のてっぺんには智の象徴、「ふくろう」がいる)

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大事なのはそっちではなくて、その場所である。ぐぐぐっと坂になったその突き当りに大学が立地している(ちなみに、このあたりのいくつかの建物がヘルシンキ大学のキャンパスになっている)。

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(データ元:Helsinki Map Service https://kartta.hel.fi/# )

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写真を見ると、すごい角度で坂になっているのがわかるだろうか?(右部の建物下部を見るとわかりやすい)。

坂になっていて、その突き当りが大学になっていることによって、大学からは極めて良い眺望を確保することができる。ちなみに大学の敷地奥は対岸が見えて、更に開けた眺望になっている。

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もともとヘルシンキ大学だったのかどうだったのか知らないが、こうした「眺望の良い高みに、重要な機関を据える」というのは、どの世どの国でもみんなよくやること。

例えば日本ならこうだ。

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(データ元:国土地理院地図 https://maps.gsi.go.jp/ )

金沢城跡(画像中央の十字のところが金沢城跡)とかね。

歩いてみるとやはり、鳥瞰では見えてこなかったものが見えてくる。高低差という視点で、高いところに何があるかを見てみると、こんな興味深い結果になった。

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(データ元:Helsinki Map Service https://kartta.hel.fi/# )

高級住宅街や大使館が高いところにあるなんて、本当にまるで東京(というか渋谷近辺)のようだ。それぞれ、松濤地区と広尾といったところ。

スタータワーマウンテンというのはなかなか大それた名前だが、もともと天文台として利用されていたらしい。地図を見ると(後述の1838,1897年の地図がわかりやすい)まちを貫く重要な道路が、その天文台に向けて一直線につながるような計画になっている。よほど重要だったのか、あるいはよほどわかりやすい場所だったのかもしれない(今日のぼったが、本当に高い場所で、のぼるのがつらかった)。

こうしてみると、はじめから都市計画をあてはめていったというよりも(もちろんそうした面はありつつも)、その場の自然地形にうまく対応しながら、まち全体をデザインしていったことがよくわかる。

6. 歴史を振り返っておく

一度歴史を振り返っておこう。

以下は1820年の都市計画であった。

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ピンク色の箇所はここまで散々紹介してきた。Engelによる新古典主義建築をはじめ、官公庁や大学、図書館、博物館などが立地している土地である。

そしてこれが1837年、C.W.Gyldenの地図。

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この時点では、一大商業地区であるKamppi地区周辺にもまちが広がっていることがわかる。

その後、1860年頃より徐々に線路を引く計画がたてられる。以下は1866年のもの。西部・南部はまだ未計画な部分が多いことがわかる。

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(出典:ヘルシンキ都市計画(Helsingin Asemakaava)、ヘルシンキアーカイブ(Helsingin kaupunginarkisto)、1866、 https://yksa.disec.fi/Yksa4/id/141269085012400#tab/basic

そして以下は1899年の都市計画。

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(出典:ヘルシンキ都市計画(Helsingin Asemakaava)、ヘルシンキアーカイブ(Helsingin kaupunginarkisto)、1899、 https://yksa.disec.fi/Yksa4/id/141269086085700#tab/basic

このあたりで、計画がほぼヘルシンキ中心部全域に及んでいることがわかる。特徴的なのは駅と駅前が埋まったこと。および地図中央上部あたりの、橋をわたったハカニエミ地区の埋め立て・開発が進んでいることである。テンペリアウキオ教会周辺(駅北西部分)の開発計画があるようだ。

7. 森なりの理解で一旦解説してみる

こうした目線から、一旦今の理解でヘルシンキを区分してみる。森の一旦の理解なので、たぶんそのうちもう少し更新される。

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うーん、こうしてみると原宿南部側がまだ解像度低い…

◯ ピンク色=ヘルシンキ大学駅周辺=上野

Engelによる新古典主義建築が見られるよ。大聖堂、大学、図書館、博物館などがあるよ。海へと続くパステルな色使いの町並みがインスタ映えしそう。

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◯オレンジ=カンピ〜エスプラナーディ通り=渋谷

駅周辺の最近開発されたエリアは、最近っぽい建築と、ネオルネサンス様式やフィンランドロマン主義の建物が混在していてぶつかりあっている。

カンピ駅〜ヘルシンキ中央駅までは、ショッピングモールが多い。カンピセンター、FORUM、STOCKMANNなど。無印良品、H&M、Flying Tigerなどよく知られた国際ブランドが集中。エスプラナーディ通り近辺は「フィンランドの全力」感を感じる。Marimekko、Iittala&ARABIA、IKEAなど、フィンランドや北欧を代表するブランドが並ぶ。とりあえず買い物観光するならここ。

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◯DESIGN DISTRICT=原宿、キャットストリート

まだ解像度めっちゃ高いわけじゃないが、個人店など、それぞれのこだわりがあるお店が並んでる。Design Districtというだけあって、特にインテリア関係の店舗はマジで多い。古着屋とか、メタルっぽい服専門店とか、カフェとか。あとは展示やミュージアムなども多い。かもめ食堂もある。

建築的には色々建ってるけど、こういう、かわいげのあるアールヌーヴォー的な建築が多い印象ある。

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◯南部の落ち着いたゾーン

個人的には代々木上原の空気感が一番好きだったかな。

代々木上原はこんな感じ。余裕と落ち着きを感じる。喧騒がすっと消えるような閑静なまちで、いくつかのイケてる建築事務所やインテリア事務所が事務所を構えているようだが、その感覚がよく分かる。

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戸建住宅街の方は、たぶん予想できないくらい高級なのではないか。ヘルシンキまで徒歩でアクセス可能で、開発が遅れた斜面に立地した、戸建ての住宅街。マジ松濤。だとするとめっちゃ高い。わかんないけど。ヘルシンキ中心部にはそもそも戸建て住宅が非常に少ない。

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本当は東北部のハカニエミやソルナイネン、西部のテンペリアウキオ教会あたりも詳述したい。

8.まとめ

ヨーロッパの町並みは、都市計画を無思考にまちに落とし込んだだけだと思っていたし、全くgoogle mapで見てもわからない気持ち悪さがあるが、やっぱり実際に歩いてみるとわかること、見えてくることたくさんある。現場に行ってみると、高低差を生かした立地があったり、開発時期による町並みの違いが見えてきたりする。

やっぱり地理学は現場からだよね。

フィンランド全体に関する記事も以下で書いておりますので、よろしければぜひ。

9.参考

なんと以下のページでは、1896年時点のヘルシンキと今とを、写真ベースで比較することができる。

https://www.myhelsinki.fi/en/see-and-do/sights/quick-guide-architectural-layers-of-helsinki

以下はすげえぞ。ヘルシンキのマップサービス。日本の国土地理院地図のように、標高による色分け地図を表示できる。

同様に以下もめちゃマニアックなサービスだが、現在の地図と1838年、1897年といった古地図とを、透明度を変えながら重ね合わせることができるサービス。港やハカニエミのマーケット周辺が、埋め立てながら開発されてきたことがわかる。






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