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ロージ・ブライドッティ「批評的ポスト人文学―あるいは、ネイチャーカルチャーにとってのメディアネイチャーは、BiosにとってのZoeのようであるだろうか?」を読む

Ron Wakkaryの「Things we could design」の翻訳に携わるなかで、森が関連図書を読み漁るコーナーです。今回はBraidotti, Rosi. 2016. “The Critical Posthumanities; Or, Is Medianatures to Naturecultures as Zoe Is to Bios?” Cultural Politics 12 (3)- 380–390.を読みます。

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批判的ポスト人文学の必要性について論じた論文。概要としては、これまでの人文学が人間中心 anthropocentrism であるのに対し、新唯物論的かつエコゾフィー的な、批判的ポスト人文学への転換を主張している。

既存の人間中心主義が批判されている、という点についてはここでは省略するが(→今読んでいる、RosiのThe posthumanにより丁寧に書かれているようだ)、それに対して、この人間中心主義を乗り越えるというのは、zoeからのbiosの分離を止めることだとBraidottiは言う。zoeとbiosという2つの見知らぬ単語が出てきた。ここでは簡単に、biosを人間の特権的な生、zoeをnon-human、つまり他の生物やモノにまで対象を広げた生として捉えておけばよさそうだ。端的に言えば、ここでBraidottiが主張しているのは、人間の生 bios を、別の種の生 zoe とは異なるものだとして特権化してはならない、ということである。

では、このbios=humanの特権化を否定するのだとしたら、私たちには代わりに何ができるのだろうか。これまでの人間 human について考えるのが人文学 humanities であったとすれば、ポストヒューマンについて考えるためには、(批判的)ポスト人文学が必要なのではないか、とBraidottiは述べている。この批判的ポスト人文学が依って立つのは、以下のような認識である。

ノマド的で、埋め込まれ、身体化され、技術的に媒介された主体というビジョン the vision of the subject as nomadic, embedded, embodied, and tech­nologically mediated (Braidotti 2011b) ”

このポストヒューマニズム的な考えにおいては、主体(例えば「わたし」)は、独立してもいないし、超越的(東京タワーの上から他のものたちを眺めるようなイメージ)でもない。主体はノマド的である。つまり常に遊動し、横切り、集散する。主体は埋め込まれている。つまり他の様々なものたち―他の人々や、制度や、技術や、モノたちや、生き物たち―との相互作用のなかにある。主体は身体化されている。ひいては主体は常に身体や、媒介された技術を介して世界を経験している。

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Braidottiにとって、このような考えの存在論的基盤となっているのが、ドゥルーズによるスピノザ論から発展させた「一元論的バイタルマテリアリズム」である。スピノザはそもそも汎神論の論者として知られている。ここで汎神論と言っているのは、極めて端的に言えば、全てのものはイコール神なのであり、私も神、あなたも神なのだから、私もあなたも全て同じものだ、という考えのことである。ドゥルーズはしかし、このスピノザの議論を一元論に読み替えている。ドゥルーズがスピノザを読み解いて見えた「一元論的な思想」とはブライドッティによれば、ラディカルな内在性、関係論的存在論、アファーマティブな倫理(多様な他者の存在に対して肯定的な倫理、というようなイメージ)に基づくものである。この考えのもとでは、世界や人間は二元論的ではない。人間はいわば、物質的に埋め込まれた、関係の網の目の中をノマド的に循環する、「プロセス的な存在」なのである。Bradiottiはこれを以下のように説明している。

「一元論的な新唯物論では、モノ、オブジェクト、人間などすべての実体を、世界の他の実体への力 forces と影響 impact という観点から分類することを提案しています。力の倫理学は、言い換えれば、人間中心的な価値観の変位をもたらし、アファーメーションの追求に基づく、関係性のある倫理学を促進します」

これは一読しただけでは非常にわかりづらい文章なのだが、Wakkaryを読む上では重要な文章なので説明してみたい。

これまで、人間は人間中心主義的な議論のもとで特権的な立場に置かれてきた。人間が特権的な立場になったのはなぜかといえば、人間は考えることができ、意志や欲望をもって行為を行うことができるという意味で、他の種とは違う”特別な”存在とみなされてきたからである。このように、(少なくとも私たちの目線でもって)「考える」ということは特別なんだと考えてしまえば、人間中心主義を乗り越えることはできない。

しかし、ところで人間中心主義ではなぜダメなのだろうか?ここでは簡単に、唯物論的な観点から、モノの重要性について指摘しておく(→The posthumanに、さらに詳細な議論があったので、また書く)。

モノについての議論を改めて引くまでもなく、例えば目の見えない人が持っている杖は、考えているわけではないが、杖の先にあるものを媒介して人々に伝える、あるいは人々を拡張するという意味で、人間に対して作用や影響を明らかに与えている(しかし、意図や考えを持っているわけではない)。あるいは、携帯という存在についても考えてみよう。私たちは、携帯を持っていない時代には、ふとカメラを起動させて写真を撮ろう、などと日常的に思ったりはしないかもしれない。ましてや、目で見ている風景を写真で撮って今すぐ友人と共有したい、という欲望は、携帯がない時代に有り得た欲望だっただろうか?

つまり、「今見ている風景を写真で撮って今すぐ友人と共有したい」という欲望は、実は独立した人間が、独立して抱いている欲望ではない、ということができる。こうした欲望は、「私」と、それに加えてiPhoneと、Instagramと、インターネットと、そして友人も携帯を持っているという確信、こうしたものが連帯しあって、いわば形成される、生み出されてしまうものなのだ。こうして考えてみれば、モノもまた大きな「力」と「影響」を世界にもたらしている。もちろん人間も、こうした力や意志を持っている。ここでは人間とモノとの関係について述べたが、ベネットたちが言うように、あるモノと別のモノの間にも、当然そうした相互作用が発生している。

そうして全てのエンティティが相互に作用しあっているということを考えてみれば、人間だけを意志や欲望で特権化することはもはや誤りだ。もし人間の意志や欲望を特権化するなら、それは非人間たちの影響を軽視していることになる。Braidottiが述べている、"全てのものたちを力と影響で分類する"というのはこういう意味だと私は理解している。

そしてこうすることで、全ての非人間たちが―それは蟻も、消費税も、橋も、鹿も、地質も、レジ袋も―この世界において力を持って影響しあっている、いわば多種多様なベクトル量の矢印がぶつかりあっているような描像が見えてくる。こうすることでBraidottiは(他の(新)唯物論者たちと同様に)人間中心主義を乗り越えようとしているのである(ちなみに森の議論に引きつけると、このことは翻って人間中心主義的な参加型デザインの文脈においても極めて重要な示唆をもっている―誰もが意図や欲望を持って”参加”しているわけではないのだ)。

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しかしここからが難しいところで、こうした批判的ポスト人文学を考えていくためには、自然と文化の間の重層的な相互依存を理解する、複雑なスキームが必要になってくるとBraiddottiは主張する。例えばひとつの言説を生み出す営みとして、Braidottiは「環境保護主義者、先住民、ニューメディア活動家、反グローバリズム勢力の間で新たな連携が生まれ、それが新たな政治的集合体の重要な例を構成している」ような像を描いている。つまり、既存の議論が例えばそれぞれの分野に閉じている(脱植民地化的な議論のみをしている人たち、環境保護についての議論のみしている人たち…)とすれば、批判的ポスト人文学は、それを超学際的にクロスオーバーする学問として浮上することになるとBraidottiは主張している。

これはわかるようでわからないところもある。その学問上の必要性についてはうなずくしかないが、極めて現実的に考えてみたとき、それをあるローカリティにおいて実現しようとすれば、そこには多種多様な論者が、そこにあるものたちと同居することになる(例えば、あるまちの古民家で、地元のおばあちゃんと、そのおばあちゃんが飼っている馬と、環境保護論者やポストコロニアリストがともにトークセッションしているような様子を想像してみたい)。その光景自体がすでに、特権的な学術論者側からの西洋中心主義的なコロニアリズム的様相を既にまとっているようにも思えてくる(それは別に批判的ポスト人文学でなくともそうなのだが、それが特に経験主義的な、埋め込まれたものを求めるポストヒューマニズム的実践であるからこそ、これは重要な問題として可視化されることになる)。しかしそこが埋め込まれて複雑に応答しあうことがおそらくそのクロスオーバーだというのであれば、それは一体どういう景色になるのだろう?

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わからなかったことなど。

  • medianatureとnaturecultureってなんだろう?naturecultureはハラウェイの語なので、こちらも読まなくてはいけない。

  • 超学際的に発展する議論として、例えばRob Nixon、Lisa Nakamura、Walter Mignoloなどが挙げられている。MignoloはPluriverse的な文脈で斜め読みしたことがあるが、その時はよく分からなかった気がする。気になる。

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