こおろぎ

もうすぐフィンランドに来てから一ヶ月が経つ。一ヶ月経ってからこの言葉を使いたかったけれど、まだ来て3週間だ。

一人でいるときはずっと考えごとをしているので、一ヶ月ほど、僕は長い時間、考えごとをしていることになる。仕事が忙しいときなんかもそうだ、世界を溶けるように捉えるではなく、分けるように分けるように捉えていく。その2つの捉え方の性質は実のところ、実数空間と虚数空間くらい違っている。実はこちらに来てから、人とお話をしているときですら僕はそんな虚数空間から会話をしている感じ。つまり英語がまだできない僕にとって、英語とは必死で頭を使って、必死で相手の言っていることを理解するような、でも虚数空間からは、足しても引いても、掛けても割っても、どうしても向こう側には届かない。それはなんだろう、会話をしているはずなのにまるでテストを受けているような。

だから、来てすぐにギターが欲しくなってしまったのもそのせいなんだと思う。僕にとって音楽とは、自分の中にある感情的な部分、直感的な部分、とりわけ、世界の中に埋没して融解していきたい小さな自分を、そっと取り出して風に乗せるような行為だから。

そしておんなじように、いまとにかく詩的に言葉を紡ぎたいなと思ってこの文章を書いている。とにかく、この世界が連続していること、僕が必死に分けて分けて理解しようとしたって、この世界はどうしようもなく繋がっているということの膨大さの前で、だから僕は打ちのめされたいのだと思う。でも一人でいると、意外とそれはなかなかうまくいかない。

それも、英語のできない僕が抱える恥ずかしさや、懸念があるから。明日に向けた恐ろしさがあるから。それはまるで僕の頭のなかで、いつも小さな羽虫が隅っこを飛んでいるような。会話をしていても、目の前の人をその人として受け止められないというか。だから話しているときの僕は平静を装っていても必死で、会話していることに現実味がなくて、ほとんど夢遊病者みたいに白昼夢のなかに閉塞している。自分の理性的なところが、壊れかけの洗濯機のようにぎしぎしと音を立てて、なんとか日本語を英語に変換する。僕はただ、その洗濯が終わったあとの洗濯物みたいにねじれた英語を、口から外に吐き出すだけだ。おそらく僕よりAIのほうが、よほど上手に会話できるだろうと思う。

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そういうときはフィンランドの森の中を歩く。

樺の木の白い樹皮は、いつ見ても異国情緒があって―もちろん日本にも白樺はあるし、僕が故郷に住んでいたころの行きつけは「しらかば食堂」だったけれど、とにかく、森を拓いた道に白い線が縦に立ち並ぶ姿は、まるで理想的なおとぎ話みたいだ。白雪姫が森の中で七人の小人と出会う話は、だからおとぎ話なのだ、おとぎ話になれたのだと思う。白雪姫がうまれたドイツのバート・ヴィルドゥンゲン Bad Wildungen というまちもフィンランドと同じように、低い森のなかに、道がずっとずっと広がっている。白い風景の中にナナカマドの樹が(日本にもよくある、南天みたいな樹だ)赤い実を、たっぷりと実らせて色を添える。

りす、うさぎ、すずめ、雁。日本ではあまり野生では見たことがない動物たちも、当たり前のようにそこによく見かける。確かにフィンランドは自然にあふれている。聞けばフィンランドは、世界で一番森林率の高い国なのだそうだ。日本は二位。

鳥の声が聞こえる。風が吹いて樺の木の葉ずれの音が聞こえる。しゃらしゃらと音がして振り返ると、高い高いサドルにまたがって、森の中を自転車で走ってくる人がいる。高い高いサドルだなあ、とおもう。たぶん僕より、少なくとも30cmは高い。

そしてぐっと息を吸う。靄がかかったような視界が、少しだけクリアに見えてくる気がする。じぶん、からだ、みち、おちば、すずめ、かば、ななかまど、きのこ、その向こうに湖と自分の住むアパートとがある。ということを突然思い出す。まるでソシュールの言語論がわかったときみたいにして、世界が概念の分節で区切られていくように。そんなふうにして、自分の内へ内へと向いていた自分のバランスをそっととるのだ。そして遠く遠く遠く、6時間分の時差の向こうに日本がある。

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そうして同時に、ああ、フィンランドは都会的だなと思う。都会なのではない、都会的なのだ。都会的ということは、統制されているということだ。知り及んでいるということだ。

フィンランドの森は標高が低く、樹が疎らだ。それはつまり、私たち人間にとって、友達のような空間だということを意味する。入っていけるのだ、どこまででも。だからフィンランドの森は、どこまででも道がある。とりわけ都市部ではそれが顕著だ。つまり、森はフィンランドにとって、「分かる」空間なのだと思う。

そこにいるのは、イノシシ、猿、鹿、熊じゃない。それは日本の暗く鬱蒼とじめじめした森とは全然違う。日本の森は今だって、畏怖そのものだ。立ち入りを禁じ、柵で囲い、信仰し、祈ってきた。それは決して知悉できない、それはホロウ、虚空なのだと思う。何が出てきてもおかしくないような、油断すれば死がすぐ隣にあるような、畏怖なのだなということが、フィンランドに来てからやっと、よくわかった。

日本の地方は、わからない、わかりえない。なぜならそこに山が森があるからだ。私たちがかなわない存在としてそれはそこに屹立している。そしてそのわからなさ、畏怖みたいなものと、私たちは共存せざるを得ない。そのわからなさの存在、わからなさへの諦観みたいなものが、僕にとっては"都会的ではない"ということなのだと思う。そしてその意味で東京も、からだの上のほうから下のほうまで、うねうねとうごめく世界はいわば、猥雑で、混沌で、それはもしかしたら、もちろんこれはあくまで個人的な意味だけれど、都会的ではないということなのかもしれない。

そしてそんな、わからなさに対して、ふっと懐かしさを覚える。それは私たちのすぐそばにいる、ぐねぐねと草が生え、侵入をこばむ、おおきなおおきな、わかりえない何かに対する懐かしさだ。それは一種の信頼のようなものかもしれない。僕はよほど、日本のほうが自然のちからを感じる。そのなかにいると感じる。

別にどちらがいいというわけじゃないけど。

だって、いいなあと思うもんね。森の中を歩けるのは。

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寝ぼけた耳でラジオを流していた。

6月にシェアハウスの住民たちがはじめたラジオだ。誰が聞いているのかもわからないけれど、気づけば一昨日、ちょうど三ヶ月を迎えていた。そして昨日の配信はまた、数えてみるとぴったり20個目の配信でもあった。相変わらずのテンポの会話。フィンランドと同じ世界線のなかに、日本があり、シェアハウスがあり、そこで暮らしている人たちがいるということを、なんだか不思議に思う。そしてまた、心から愛おしく思う。

その声の向こうに、こおろぎの音が聞こえた。

こおろぎの鳴き声が聞こえた、その声が僕の意識をぐっと引き戻す。9月あたま、夜やっと涼しく、寝心地がよくなってくるころ、僕たちはこおろぎのしゃらしゃらという音のなかに包み込まれるようにして眠るのだ、その布団の重さ、肌の温度、湿度、におい、あるいは誰かの笑い声、そして夜のこおろぎや鈴虫やキリギリスの連綿と続く重奏のなかに、僕や家や住人や世界が静かに溶け合っていくような9月の夜に、僕は突然引き戻される。

そうして、僕が住んでいたところには、たくさんの音があったなあと思い返す。朝の鳥たちの、あるいはかえるの、蝉の、こおろぎや鈴虫やキリギリスたちの、たくさんの音に囲まれていた。そんな音の洪水のなかで僕たちは眠っていたのだ、僕とあなたの、僕と世界の境目をぬるぬると融かし合いながら、ずっと。

鯖江の最低気温は、まだ20度もあるという。フィンランドはもう、最高気温だって14度くらいだというのに。

そうか、とラジオが終わって、静かになった部屋で思った。この国では、こおろぎの声は聞こえないんだ。

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