技術が私たちの偶発的行為を意思/選択/自責任に追いこんでいく世界において、私はずっと「選びたくない」のだ

すべてを意思と選択の問題に還元してしまったことが、色んな場所でひずみを生んでいる(それはまた、技術的進化が私たちに強いるものでもある―出生前診断のように)。確かにそれは自分で選択できるという自由への転換なのかもしれない。でもいま私たちにとって、就職も、結婚も、妊娠・出産も
すべては意思と選択の問題に帰されている。そこに前提されているのは、「私たちはよく考えれば合理的に選択できるのだ」という合理主義的人間像であり、そしてこのうねりに表裏一体でくっついてくるのが、「私たちは自分の選択の責任を負わなければならない」という個人主義的な自己責任論だ。

それと現代社会のVUCA的な性質とは、すこぶる相性が悪い。多様で複雑化し、それらが急速かつ急激に変容してしまう社会。にもかかわらず、就職をするにしても、この無限の会社群から、比較軸さえ持たずに、"正しい会社"を選ぶよう強制される。本当はそんなこと不可能で、実際には就職という選択は、むしろ僕は偶然だし偶然であるべきだと思う。自分で選んだんでしょう!と言えるようにしてある社会設計によって、私たちは苦しむことになるのだ。もちろん、こうして自分で選べるということが完全にデメリットであるわけではない。自分で住む場所や就職先を選べない人生は、単なるムラ社会への退行でさえある。

その意味で、この社会が目指すべき像は「自分で決めるか、決めないか」ということそのものに対し、このどちらも選べる社会であるはずだ。すべてを自分で決められる社会が"正しい"わけじゃない。そうすることで苦しいと思っている人だってたくさんいるはずなのだ。就職であれなんであれ、自分で決めたい人は自分で決められるように、自分で決めたくない人は自分で決めなくてもいいように、そうできるのがよりよい社会であるはずだと僕は思っている。そして就職という領域については、少しずつそうなりつつあるように思われる。

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しかし、こうした「どちらも選べる」ということが社会的に許されないのが、妊娠/出産だ。いま、避妊法の広がりによって、妊娠/出産は「選択の問題」になっている。妊娠/出産することになった実態の過程がどうであるかはさておき、少なくとも社会のなかでは、妊娠も出産も、あなた(たち)がそう望んだんでしょう、あなたが責任を持たなくちゃいけないでしょう、ということが、技術的な発展によって、そう前提されるようになっている。つまり妊娠・出産は、必然的にそのまま、生まれるこどもの未来の責任を、二人で(場合によってはひとりで)すべて引き受けなければらないということと同義に"なった"のだ。

そして僕は、そうでない可能性があるべきだと思っている。子どもを産むことが自分で選択した、責任を負うべきものだとされている社会で―しかもこの日本で―そんな責任を本気で負える人などほとんどいない。その意味で、妊娠も出産も、むしろ偶発的で無責任であるという選択肢があるべきだと僕は思う(すべてそうであるべきだという意味ではない)。できちゃった婚はひとつのあるべき像なのだ。

しかし、「できちゃった婚」という語が象徴しているように、まさに「できてしまった」ことは「例外」だ。妊娠と出産は、未来を検討し、責任を負えるという認識のもとで、管理された過程でおこなわなければならない。そして、それ以外は「失敗」なのだ。

"現代では……妊娠するという決断は、妊娠しないという規範の例外なのであり、妊娠に対する責任は、明らかに避妊技術の知識と使用に関わるものだ。このことは、ハイテク社会で大きな社会問題とされている、思春期の妊娠によく表れているのではないだろうか"(Ihde, 1990)

そして私たちは、技術的発展のなかで、その「あなたがが選択したのだから」論から逃れられなくなりつつある。避妊も出生前診断も、次々に私たちの行為を「自己責任」にしていく。障害を持った子を生むかどうか?その選択肢はかつてなかった。生まれてからしかそうだとわからなかったのだから。ここでは、それを選択できるようになったのがよいかどうかを問題にしているのではない。問題なのは、それが選択できる、という技術的基盤が生まれて以来、少なくとも社会的に、「産んだということは、あなたが選んだんでしょう」という言葉から、私たちは逃れられなくなった、ということだ。

社会/技術の発展はこうして、私たちの偶然の帰結を、次々に私たちの意思・選択・決定のもとに追いこみ、そしてそれを私たちの責任にしてしまう。私たちは望むと望まざるとに関わらず、不可逆的に、それを偶然に帰すことができなくなってしまうのだ。

それをどうしたらいいかはよくわからない。少なくとも僕個人としては、可能な限り"声"みたいなものにあらがって、自分が選んだのではなく、そうなってしまったのだ、ということに身を委ねていきたいと思っている。おそらくそして、そういう流れがひとつ生まれてくるものと思う。しかし、その〈技術によって私たちの偶発的帰結が意思化される〉という流れに対して、私たちがいかにその「選ばない」という権利を取り戻していけるのか、社会的に、「この出産は選んだものではない」ということをどう正当化できるのか、そのアイディアは残念ながら思い当たらない。

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