わたし、あなた、よわさ vulnerability

みんなで舞台に立とう」の取材に行ったときのことを思い出す。

こうすべき、ではなくて、自然とそうであること。いやなことはいやであり、恥ずかしいときは恥ずかしいのであり、楽しいときは楽しいと表現すること。それを隠して、よく振る舞うことが「社会的である、社会性がある」と見なされる世の中。おそらく、そうではないこと…感情がそのまま表出してくることは、Vulnerableだ(ここではそれを"よわさ"と呼ぼう)と言うのだろうと思う。

だけれど思い返せば、僕が大きく息を吸えるのはむしろ、「よわさ」のある空間だ。

僕はなにかができる存在なのだ、何者かなのだ、ということは、実は自分とは一切関係がない。強さとは、他者に"比べて"成立するものだから。その意味で、強いとは、自分からもうひとつ離れたところにある。(もちろん、内側から浮き上がってくるような強さもありそうな気もする)。

弱くていいということは、誰かと比べなくていいということなのだ、つまり。弱くていいという空間。自分を開示していいということ。そのとき、空間にわたしはひらかれる。

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わたし、と、あなた、と、くうかん、というものがあるとき。

強くあらねばならない場所では(それを「社会」と呼ぶのだろうか?)、強い私は、きりっとして空間に立つ。私は私の強さをまとう。他者に対して優位に立つことで強さはあらわれるから。弱さはその、内側にしかありえないものだ。そのとき、私と、あなたと、空間とは、隔てられる。まずは私という殻で。次に、あなたという殻で。あるいは、衣服と。あるいは、会議室に机があるのは、紙を読むためではなくて、私とあなたとのあいだを、隔てるためにあるのかもしれない。だとするならば、メールや郵便物はさらに(もちろん、ZOOMだって)、私を限界まで捨て去って、ただ強さを(文字の強さと。権威と。そうしたものだけを)送りあうものだ、といえてしまうのかもしれなかった。

その場所が、弱くていいとき。それがどんな空間なのかはわからないけれど、いや、それはおそらく、「誰かが弱いとき」であるのだろう。堂々と、私は弱いのだ、と開示するとき。わたしはくうかんにひらかれる。

くうかんとわたしの境界があやふやになるような状態。よわさが開かれている状態というのは、まさにvulnerable(傷つきやすい、脆弱な)な状態だ―ひらかれているのは、わたしそのものだから。あなたの刃は、簡単に刺さってしまう。そこに。そんなふうに、わたしはくうかんにわたし自身をひらく。そのとき、弱さの空間がひらかれる。わたしを、よわさをひらくというのは、別の言葉で言うなら、あなたにわたしをゆだねることだ、といってもよい。わたしとくうかんが重なっているとき、あなたはわたしに、なんでもしほうだいなのだ。傷つけることだって、ばかにすることだって、簡単なのだ。

しかし、そのあなたに全幅の信頼をおいてゆだねるという行為が、いわばあなたが「よわく」なってもいい、というメッセージを、全身全霊で「あなた」に伝える。

わたしがくうかんにわたしをひらく。そのとき、あなたはなんでもしほうだいだけれど、だからこそ、あなたもまた、くうかんにあなたをひらくこともできる。

そしてあなたがくうかんにあなたをひらくとき。わたしとくうかんの境界が溶け合い、あなたとくうかんの境界が溶け合うとき、溶け合っているのは、わたしとあなたである。

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なんだか、今日はそんな日だったのだ。

1月10日から、アアルト大学ではperiod3がはじまったのだが、火曜日は「Urban Experience(都市の経験)」と「Freedom(自由)」という授業を取っている(僕ならとっていそうでしょう?)。が、その二つの授業が、想像以上に「弱さのある」空間だった。

Urban Experienceの教授は、クリアながらやわらかいトーンで、ほんとZOOMっていやになっちゃうわ〜と言いながら、丁寧に言葉を選びながら、他者のあることを歓待するような人だった。Freedomの授業は、当然たくさんの言葉を交わすことを期待してはいたものの、思ったよりずっとずっと"よわさ"のある空間だった。「2015年に、僕は深い深い鬱になりました。そこで、どうしようかなと思ったとき。僕のために授業をしようと思ったんです。僕が必要だと思ったんです、この授業を」。なんだかこんな風に彼らが空間に融けだしてくるものだから、僕も引きずられるようにして、-10℃のフィンランドに凍てつくようになっていた僕の「よわさ」がひらかれていくようだった。

教授は宿題なんか終わらせなくていいんだ、と言った。終わらせることになんの意味がある?人生で「終わらせる」ことができることなんて、どれだけある?と。「15分だけだ。15分だけ日記を書いてほしい。自由を感じたとき。そして、その全く逆のことを感じたとき。」

そうして授業が終わったとき、あれ、このかんじが自由なんじゃないかしら、などと思ったりしたた。このよわさを共有するような感覚。僕は何度か、「自由とは、自然であることである」ということを言葉にしてきた。誰からも押し付けられず、無意識に常識に縛られず、自由気ままにあること。その意味で「よわさがひらかれるくうかん」は、ひとつの重要な「自由」のための空間なのではないかしら。

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その意味では僕が好きな空間というのは(端的には、それは僕が住んできたシェアハウスのことである)、よわいことに従順な空間であったのかもしれなかった。わからなさとは、さらにその結果でしかないのかもしれない。つまり、よわい空間では、誰もがひらかれてしまうがゆえに、常識的に行動するだとか、社会的であるだとか、役割に従って言葉を発するだとか、そういうふるまいが―誰からも"わかる"ということが―不要になる(できなくなる?解除される?)。だから、その空間は、結果的に「わけがわからない」のかもしれないなと。

もしそれが「よいもの」だと言っていいのなら、それを作ってゆくために必要なのはよわさを後押しする(つつみこむ)空間と、よわさを開示する人間である。

そういえば、ゆるい移住で僕たちは「僕たちは雑魚ですから」とずっと言い続けていた。取材も、お酒を飲みながらやりましょうと(これは流石の若新さんの案であったけれど)言ったのは、まさに弱さに対して従順であろうとする気持ちの、直感的なあらわれだったのだろうなと思う。

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などと僕は早速、15分でやれ、と言われた"日記"を、既に30分以上書いているのである。


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