2024年1月27日 「おばあちゃんの前腕」

・ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』。こういう映画は久しぶりのような気がする。どう理解していいかわからないショットが多い。

・ここには書きたくないけれど、とっても素敵な夢を見た。夢の中にしかいない人にものすごくキュンキュンしてしまった。現実にいないということがちょっと辛くなるくらいだった。

・コンビニで「雪苺娘」というスイーツを買った。薄いスポンジを底に敷き、クリームと苺まるまる一個を求肥で包んだやつ。美味しかったのだが、ケースから出して触った瞬間に「おばあちゃんの腕だ!」となった。歳をとってよれた皮膚と、生活の中で鍛えられ引き締まった前腕の筋肉、その分離した感じ。一瞬怖くなったけれど、途端になんだか懐かしくなって帰りたくなった。

・餃子の王将で炒飯セット。なんだか最近無性に炒飯が食べたい。食べても食べてもまだ食べたい。なぜだろう。炒飯、餃子一人前、スープ、唐揚げ2個。結構量があるけど黙々と食べていたら食べきっていた。ここまで満足感のある食事って久しぶりかもしれない。甘いものが食べたくて、たい焼きでも買おうと思ったけれどもう少しお腹がこなれてから食べたいと思ったのでやめた。なんという食欲。まあ朝も昼も食べなかったから。

・王将の炒飯を食べたら、コンビニの炒飯がどれだけまずいかがわかる。王将でさえこれだけ上回るのだから、ちゃんとした店の炒飯ならどれだけ美味いか、と思う。

(略)しかしそれでも、現在の都市空間のように老いも若きも金持ちも貧乏人もフラットに「消費者」として匿名化する、その手つきがあまりに鮮やかで隙がない今となっては、匿名のラベルからはみ出たものをたくさん持った、固有の個人として人と出会いたいなという気持ちも湧いてくる。一方に振り切れば、もう一方がよく見えてくるもので、勝手なものだと思う。

柿内正午『プルーストを読む生活』、p.559

コンビニの店員さんに笑顔で応対すること。そこにあるぎりぎりの抵抗。

 ロマンティックな恋愛みたいなものはだいぶ相対化されてきたと言うか、ほとんど幻覚に近いよねと言う気分が醸成されては来ているように思うけれども、それでもやっぱりこのロマンティックへの幻想っていまだ強力なようで、むしろフラットな市場としてあらゆる境界が無化され、その共通言語として合理や効率が用いられる現状において、恋愛はますますロマンティックになっていくのではないかとすら思う。あらゆることが数値化され最適化されるような現状への対抗文化としてのロマン主義。それを発揮できる場として残されているのは恋愛とレイシズムしかないのではないか。個人の偏執だけをよすがに堂々と排外的であれること、独我論に信を置くことができる場所。そういうものとして僕は恋愛をとらえているようで、だから「私」の恋愛模様に対する居心地の悪さはただ恥ずかしいものというだけではなさそうだった。

柿内正午『プルーストを読む生活』、p.565

恋愛の最大の問題点は排外性にあると思われるのだが、恋愛の最大の条件もまた排外性にあると思われ、宗教に似ているなと思う。

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