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召されている教会、立てられている働き人 ―神の召しと賜物が実現されること―

王様に謁見するのに、自分から行くことなどありえない。呼び出されたら、だ。それが、「召し」。私は、召されている?

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、(エペソ4章1節)
そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。(エペソ4章11節)
さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3章13-15節)

召される、という言葉は、教会生活の日常の中で、伝道者になる者がしばしば証しの中で使うものだ。あとは、天に「召される」という文脈で使われる。

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新約聖書で、「召す」はKALEOというギリシャ語の訳。この言葉自体は、人を呼んだり、名前をつけたり、宴会に招く場面でも使われる、ごくごく普通の日常用語らしい。福音書や使徒行伝の中の用例は、ほとんどがこの用法。

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「主に召される」という明確な用例は、「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13;マルコ2:17;ルカ5:32)、「そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った」(マルコ1:20;マタイ4:21)など。上掲のマルコには、「呼び寄せられた」という訳語が当てられている。

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パウロの手紙以降では、主に召されるという用法が目立ってくる。パウロやペテロの手紙、ヘブル人への手紙でも、これらのすべては、教会、あるいはイスラエル(民族)について言われていることだ。

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福音書で使徒たちが「招かれ」たということと比肩される人々とは、教会だということなのだ。旧約の預言者たちも、召されてその働きについている。そして、預言者、使徒という土台の上に立てられているのが、教会。(エペソ2:20)

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では、伝道者は召されて伝道者になったのではないのか。もちろん召されている。教会に召された時点で、すでに召されたと言える。そのときには、まったく意識はしていなかっただろうし、私自身も、その召しを自覚したのは、伝道者に「召された」と受け止めた時。でも、聖書をよく見てみると、召しは、教会に対するものであることがわかる。

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エペソ4:11には、「お立てになった」という言葉がある。預言者も使徒も含めて、ここでは立てられた人々として言われている。教会に「与えられている」働き人たちだ。

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ローマ12:6や1コリント12:29,30では、「賜物」が与えられている人々のことが記されている。確かに、御言葉を教える働きには、それ相当の賜物が必要だ。個人の能力という意味ではなく、まさに、神ご自身がその人の上に働いてくださってなされるのが、御言葉を教えるという働き。

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この賜物と、「召し」とが結び付けられて考えられることが多いのは、ローマ11:29の「神の賜物と召し」で、この二つがしっかりと結合されているように見えるからだ。でも、よくよく見てみると、この文脈で言われているのは、イスラエルの召しと賜物のことであって、個人の伝道者などの働き人に関することではない。

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個人の「召し」がどのようなものであるのか、もう少し研究の余地があるように思える。

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