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宣教者・教師とは何なのか? ―召しと任命―

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、(マルコ3:13,14)

わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。(1テモテ1:12)

そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。(1テモテ2:7)

最初のは、マルコが記している、宣教者が立てられる場面。みこころにかなった弟子たちがまず「呼び寄せられた」。それからさらに、12人が立てられた。ルカはここで、「選ばれた」という言葉を使っている。この12人が「使徒」と名付けられる。

パウロは、「使徒」として「召された」ことは多くの手紙に書いているけれど、テモテに当てて書いた手紙では、あえて「召され」とは書かず、「任じ」られた、あるいは「立てられた」と書いている。新改訳では、「命令」と「任命」だ。パウロはおそらく、テモテの立場に立ちながらこの励ましの手紙を書いている。自分は召されたのにあなたは任命された者であって、格が違う、などという印象を消し去っている。

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旧約聖書の中で、ある人が「任命」されるという記事は、エジプトで穀物の管理者たちがパロによって「置き(任命する・お立てになり)」と言われているのが最初(創世記41:34)。次が、大祭司が任命される場面。「そしてあなたはこれをあなたの兄弟アロンおよび彼と共にいるその子たちに着せ、彼らに油を注ぎ、彼らを職に任じ、彼らを聖別し、祭司として、わたしに仕えさせなければならない。」(出エジプト28:41)。さらに、ヨシュアがモーセの後継者として任命される箇所だ。「彼を祭司エレアザルと全会衆の前に立たせて、彼らの前で職に任じなさい。」(民数記27:19;27:23)

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大祭司やヨシュアの「任命」の場面を見ると、任命とは公に知らしめられることを言っているように見える。大祭司がアロンとその子たちに定められたことは、同じ出エジプト記28章では1~4節に繰り返し記されている。ただし、アロンとその子たちが特別な勤めに定められたことは、出エジプト27章にすでに記される(出エジプト27:21; 28:1)。任職の実施はレビ記8章に記される。イスラエルの全会衆が集められ、その見ている前で、定められた任職の行為がなされる。「任命」とはここでは、アロンが祭司として公にされる儀式行為のことを指している。

ヨシュアの場合、まずモーセが主に願い求めている記事がある。「すべての肉なるものの命の神、主よ、どうぞ、この会衆の上にひとりの人を立て、彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」(民数記27:16-17)。その求めに応じて主が答えたのがヨシュアだった。こうしたやりとりがあって、それから任命するようにという命令がなされる。任命の場面では、「そこでモーセは主が命じられたようにし、ヨシュアを選んで、祭司エレアザルと全会衆の前に立たせ、彼の上に手をおき、主がモーセによって語られたとおりに彼を任命した。」(民数記27:22,23) 任命とは、ここでも全会衆の前でなされるものだ。

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イエス・キリストが12人を立てたと記されている記事を、旧約のこの「任命」として読むことは可能だろう。多くの弟子たちが集められた中で、特にこの12人が「任命」されたのだ(マタイ10:1、マルコ3:13,14、ルカ6:13)。ではパウロが「任命」されたのはいつ、どこでだったか。アナニヤが主に命じられてパウロのもとに行って、主の召しを告げる。目からウロコのようなものが落ちて、パウロは目が見えるようになり、バプテスマを受ける。これは、教会の会衆のいるところで行われたのではなかった。アナニヤとふたりだけの場所。だから、テモテへ(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)とわざわざ一文を挿入していると考えることもできる。

では、新約聖書で言っている宣教者への「任命」は何なのか。現代の宣教者・伝道者の召しとは、使徒の「召し」と同レベルのものなのか。

教会に立てられている御言葉の働き人として、エペソ4:11では、「使徒(アポストロス)」「預言者(プロフェーテース)」「伝道者(エウアンゲリステース)」「牧師(ポイメーン)」「教師(ディダスカロス)」があげられている。現代の教会に、これらの人々は、どのようにして「立て」られるようになるのだろうか。教会に対して神が召しておられるように、 「献身」するようにと教会の中の特定の人々をさらに召しておられるのか。

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パウロは、これらの働き人たちに関して、使徒を除き、ひとつも「召し」と言う言葉を用いていない。テモテやテトスに関してすら、召しについて何も言及していない。テモテへの励ましの言葉には、一切、あなたは召されているのだから、と言う言い回しが含まれない。

エペソ人への手紙のこの箇所で、使徒や預言者とほかの御言葉の働き人が一列に並べられていることが、同じように召されている者として類推させているだけだ。よくよく考えてみると、「召し」と言う点で並べられているのか、教会に与えられている御言葉の働き人と言うことにおいて並べられているだけなのか、明らかではない。

使徒や預言者は、もちろん「召し」が明確だ。アブラハムは神の呼びかけを聞いた。自分の国を離れ、父の家を離れて、神の約束の地に向けて出立した。モーセは、神の呼びかけを聞いて、自分の非力のゆえにしり込みはしたけれども、命令に押し出されてパロの前に立った。士師たちも、サムエルに続く預言者たちも、明確な神の呼びかけに応じて、それぞれの働きへと歩を踏み出している。12使徒は直接、主イエス・キリストに呼びかけられ、選ばれて、使徒として立てられた。パウロもまた、個人的に呼びかけられて、使徒としての活動を始めている。そのように、現代にあっても神が個人的に呼びかけ、神の働きに召され、献身へと召されているのはだれなのか。

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特定の人々だけが、使徒や預言者と同じような、御言葉に仕える働きへの「召し」を受けているのではない。ほかの教会の人々は、召しがないからと献身をせず、神の働きもしなくてよいのではない。ローマ人への手紙12章で献身が促されているのは、教会のすべての兄弟たちであり、特定の誰かが献身すればよいとは、パウロは一切語っていない。神の怒りから救われ、死ぬべきからだから救われた者はすべて、イエスが主であることを告白しつつ、神の御言葉のすべてに、応答すべきなのだ。私たちは皆、聖書を通して、神の呼びかけを聞いているのだ。その言葉の一つとして、私たちすべての者に無関係な言葉はないと知り、自分に語られている言葉ではないなどと言って、避けてもよい言葉など、一つもない。

そのように、自分に対して神が語りかけてくださっていることが恵みであり、その恵みを自覚しつつ応答することが、すべてのキリスト者に求められている。教会すべてが、神の働きに召されている。

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それで、私は御言葉の働き人に召されているだろうか、と悩み、祈るのではなく、私はどんな賜物が与えられているのだろうか、と、神からの賜物を探り求めることが、献身した教会には必要だ。「この御言葉が与えられた」と、召しを確信することが間違いとはいわないけれど、神が語ってくださっているのはその箇所からだけではないことも忘れてはならない。キリストを証しすることはすべてのキリスト者への命令であり、御霊が下って力を与えてくださるのはその目的の遂行のためだということを、忘れてはならない。

特に、御言葉の働き人として、どのような賜物が与えられているはずなのか。その基準が、「監督(牧師・長老)」の条件として、テモテへの手紙第1に記されている。パウロのこの書き方は、教会の指導者、御言葉の働き人が立てられるために、積極的にこの条件に沿った人物を探すように、指示するものだ。

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教会の中で、日曜学校(教会学校)での働きに参加している献身者が、その御言葉への忠実さが認められるに従い、与えられる責任、ゆだねられる働きも、多くなるだろう。そうした人たちの中から、教会の指導者が、キリストのみからだである教会によって任命されるのは、御心にかなっていると思われる。教会内において証しされて、派遣される伝道者として用いられる人もあろう。

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「聖職者」として、教会の中で指導者が特権階級となってしまうことがある。「特権」とまで言わずとも、特別な地位を得る。それが、もし預言者や使徒たち同様に「召されている」ことを理由にしているのであれば、私はそれを疑う。働き人が、その御言葉に忠実に仕え、教えていることによって、二倍の尊敬を受けることは問題ない(1テモテ5:17)。そうではなく、召されているから、主に立てられているから、ということを主張して、自分への尊敬と従順を集めようとするのは、御言葉に教えられていないことだと思える。

弟子とする、という主の大命令は、最終的には、御言葉の働き人を育てることを指しているだろう。教会が主に与えられている使命に献身し、賜物を自覚して、特に御言葉に仕えることを導かれた者が教師として、教会で仕える。その中から、伝道者、牧師(長老、監督)が与えられてくるのだろうと考えられる。

伝道献身の決心を待つことよりも、弟子を育て、賜物を見出すことによる働き人の育成を、よく検討してはどうだろうか。

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        (写真は、1999年アルバムから)

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