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探し出されるのは、迷惑か。。。ールカによる福音書―

神は、一人なのか。イエスだけが、神なのか。どうして「イエス」だけを神としなければならないのか。

日本に生まれ育ったボクにとって、八百万の神々は日常・・・ といっても、ボクはそれすらも信じてはいなかったのだけれど。ともかく、「イエスだけ」にどうにも抗しがたい反発心があった。

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その上に、イエスは、ただの人間じゃないか、それを、人々が神に祭り上げただけじゃないか、そんな決定的な疑問が、考えを支配していた。疑問をちゃんと追及したわけではなかったのに、まるで、この疑問は決して答えられないものだ、とばかり、自分の確信を握り締めていたのだ。

だいたい、神々といわれるもの一切を信じていなかったのだから、キリストもその程度にあしらっても良かったのだろうけれど、引っかかるものがあった。それが、「イエスだけ」という点。でも、本当は、神とはどんな方なのか、という基本的なことを、まったく考えたこともなく、漠然と抱いていた神々と比較していただけ。

だから、神がこの世に「来た」という、発想の大転換には、すぐについていけなかった。本当の神なら、歴史にその足跡を残しているはずだ、しかも、人類の歴史のはじめから繰り返し、明瞭な足跡があるはず、ということに、ぜ~んぜん思いが至らなかったのだ。

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日本の神々が、「神話」としてしか語り得ないような内容の物語の中のものにすぎないと同様に、聖書の「神」も、それと同じとしか思っていなかった。それは、ボクと「神」との関係がまったく切れてしまっていたゆえに起こっていた精神状態だったのだけれど。見たことも聞いたこともないものを、ボクは想像することもできなかった。それが、聖書の「神」だったのだ。

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「失われたもの」とは、まさにそんなボクのことだった。生きている神がいるなんて、考えもしなかった。神なんてものは、他に頼る以外に生きるすべのない人が作り上げたもので、自分で考える力のある人間には不要なものだ、と、まるっきり自分の側の論理だけにとらわれていて、実際に、それでは生きている神がいるのだろうか、と問うこともしていなかったのだ。

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聖書は、そんな人間のために、そんな人間を尋ねだして救うために、神が地上にやってきた、と、言う。で、あるとき、ボクは友達からこんなことを尋ねられた。「イエスが奇跡をしたって、信じられる?」 で、こう答えた。「イエスが神だって言うんなら、奇跡をしたっていうのは不思議でもなんでもないんだろう?」

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逆転の発想がぜんぜんできなかったのに、ふと、その可能性を自分で引き出したみたいな答え。おそらく、何度もキリストの話を聞いたり、本を読むようになってきていたせいなのだろうけれど、自分の中で、視野を広くして考えてみる、ということを、本当にやってみた、最初だったかもしれない。それに、相手の親切に少しは答えたい、という気持ちもあったかも。

考えてみると、イエスは神ではない、という証拠を、自分でどれだけあげることができただろう。そんなのは、まったく持っていなかったのだ。そして、聖書の物語は「神々」の物語と決定的に違っていて、歴史的な物証のある、信頼できる目撃者の証言がある、そんな話なのだと、ようやく気がつき始めていた。自分の狭い経験だけで、世界の歴史をどうやって否定できるんだろうか。そんなことできっこないのに、ずっとそれにこだわっていたのだ。長いこと教えられて、ようやくそれに気がつき始めていた・・・

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最終的には、具体的に迫ってくる、神。それが、目障りだったのかも。勝手にさせてくれ、って言いたかったのかも。神がいてもいいけれど、自分に干渉しないでくれ、と。

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この世に来て、「失われたものを尋ねだして救う」という、おせっかいなんて迷惑、とばかりに、よくわからないままに、やたらめったら拒否していただけのように思う。いったい、聖書の神を知ることが、どんなマイナスになるんだろう。ただひたすら、「触らぬ神にたたりなし」とばかりに、避けていたのだ。実際には、「失われたものを尋ねだして、救うため」にきてくれていた、というのに。

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。
(ルカによる福音書19章から)

(写真は、1999年アルバムから)

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