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月を撃つひと〜『グレート・ギャツビー』を観て

『今夜、ロマンス劇場で』に引き続き、『グレート・ギャツビー』でも月城かなとはいろいろ炙るなあ、と思った。

舞台で小説家を演じ、その数年後にかつて自身が演じた小説家の代表作の、しかもその小説家自身が少なからず投影されているとされる作中人物を演じたタカラジェンヌなどそうそういるはずもない。『グレート・ギャツビー』は演出家・小池修一郎にとって三回目の上演で、一回目は大劇場一幕もの、二回目は外箱二幕もの、三回目は大劇場二幕ものとそのたびごとに規模を大きくし、それに応じて形を変えてきた。管見の限り小池修一郎は「読むひと」であり、その真骨頂は脚本家としてでも演出家としてでもなく文学者としてこそより全面化するのではないか……ということを『歌劇』所収のギャツビー座談会を読んでいてあらためて思う。再演とは畢竟再解釈の機会であり、それが宝塚の舞台である以上その解釈は主演役者=トップスターに即して展開される。トップスターとはその舞台作品の主演役者であるのみならず、その舞台の心臓たるコアであり、限界を定め形を保つエッヂであり、ポスターほかヴィジュアル素材に見られる通り作品を象徴する顔であり、また時間ならびに空間のなかで描かれる軌道としての身体であるからだ。と同時にトップスターもまたひとりの生徒であり、生徒である以上は役者のひとりとして、舞台装置の一部として、テクストのワンセンテンスとして作品に奉仕する。トップスターとして奉仕される、奉仕するタカラジェンヌ。この再帰性の運動の往還こそが宝塚歌劇の宝塚歌劇たる所以ではないか。テクストが先か、スターが先か。

ある作品がこの世に誕生するにはその起源に作者が必要とされる、言い換えれば作品という近代的概念においてはその成立要件として作者という固有名は欠かすことができない。"作者"はそれが実際には誰によって書かれたかというきわめてアポリアに近い、厳密を期すればその成立さえ統語レヴェルでほとんど破綻しているとさえ言えそうな問いとはひとまず無関係に信じられるほかないフィクションであり、そうやってかろうじて成立するある作品の登場人物が作者という正体不明の胡乱きわまりない存在の投影だとされるには、読者という媒介項による作者のイメージや諸テクストと当該作品とのあいだの不断の架橋が必要不可欠となる。登場人物の形象として作品テクストに落ちる作者の影は、無数の読者による"読む"という営みの軌跡でもあるはずだ。いみじくもスカイステージのLOCK ON!-スター徹底検証-で小柳奈穂子が指摘したように、月城かなともまた「読むひと」であり、「読むひと」としてフィッツジェラルドという起源とギャツビーというその影の双方を演じるのだし、「奉仕する、奉仕されるトップスター」である以上は「テクストとして読まれる、テクストを読むひと」でもある。

風間柚乃がNOW ON STAGEだったかで『グレート・ギャツビー』のことをしきりに「ニックが書いた物語」と言っていたことが頭の片隅に引っかかってはいた。舞台という視覚優位の叙述形式ではフレーバーのみを残しつつ再編されざるを得ないが、実際に小説『The Great Gatsby』はニックの一人称によって叙述されている。だから『グレート・ギャツビー』はニックの書いた物語なのだ……とは決してならないのだが(たとえば『めぐり会いは再び next generation-真夜中の依頼人-』のように一作中人物に身を落とした、作品宇宙の創造主としての"作中作者"が語りの装置として示唆されているわけでもないのに)、実際にその一人称小説が書かれる根拠を手記や日記、手紙のような作中世界のオブジェクトに落とし込んで読者としての辻褄を自らの中でのみ合わせるかのような振る舞いって確かにあるはあるよねえ……おだちんの場合はフィクションが書かれるということに対する素朴さのあらわれなのか、はたまたフィクションの約束事なぞ断じて呑むものかという頑なさの発露なのかよくわからないけど、いやまあ前者だとは思うけどねーと、そのくらいの印象でしかなく、あくまでそのときは。

他のヴァージョン、とりわけ直前に読んで臨んだ(休演で最初の観劇予定がなくなったとき意気消沈のあまり最終章を残して読み進めることができなくなってしまったものの、公演再開がアナウンスされどうやら手持ちのチケットでの観劇がかないそうだと目処がたったとたん光の速さで読了してしまった我が身ながらの現金さよ……)現時点でもっとも新しい日本語訳と思われる光文社古典新訳文庫版では特にそういうこともなかったのだけど、2022年版月組版を観た後どうしようもなく胸にこみ上げ、胸を衝き、胸を締め付け、胸に焼き付いたのは「崇高」という二文字だった。崇高なる(=グレート)ギャツビー?

とはいえギャツビーはあくまで崇高なるものを志向する、その突端に立つ者であるはずだった。ギャツビーの視線が向けられている遥か距離の果てにあるのはブキャナン邸、明滅するデイジーの息づき、そしてかつてギャツビーとデイジーがともに過ごしたほんのひとときのささやかな思い出。劇中でただひとりギャツビーだけがその距離によって築き上げられた崇高をかならず自らの掌中に収めることができると信じていた。ギャツビーが「ほかの誰よりも価値がある」のはその崇高さへの意志ゆえにほかならない。小説版ではニックがその言葉を結果的な餞としてギャツビーに送ったあと、すなわちギャツビーの死後、かつてギャツビーが見たたであろう風景を永遠に失われてしまった友人に成り代わって見る。崇高さに相対したであろうギャツビーの感情を、少なくともニックの(文字通り叙述上の)視点においては嘘偽らざるギャツビーの生の履歴を反芻し、その時間と取り返しのつかなさという距離をもって、その崇高さを読者のもとへと送り返すのだ。崇高なるギャツビー!

宝塚版ではニックの視点を物語の大枠として採用しない代わりに、崇高さへと向かうその距離の突端に立つギャツビーの物言わぬ背中がニックの眼差しを媒介して観客に向かってこの上なく印象的に差し出される。そう考えると、劇中で強靭なまでのそのニュートラルさをいささかも揺らがせることなく徹底してギャツビーに寄り添う風間柚乃がニックの視点やギャツビーの視点に思いを馳せることで語りの構造に否応なく触れてしまったとて何の不思議があるというのだろう(ところでこの作品における崇高さのシンボルといえば灰の谷で何よりも存在感を放つあのあまりに印象的な舞台装置=「神の目」と呼ばれる大きな看板なのだが……あの顔、ちょっと風間柚乃に似てなイカ? つまりはそういうことなのか?? )。

正直、れいこギャツビーって格好良いんだか格好悪いんだかわからない。偽りの履歴を暴かれデイジーから引き離されようとしたときも、悪びれもせず堂々とまっすぐ正義を執行するかのごとく「デイジーには言わないでくれ!」と彼女の保護者に対して泣きついてみせるし、アイスキャッスルで再会したブキャナンから初対面時にギャツビーが尻尾を巻いて逃げ出したことを揶揄されたときも、いかにもブキャナンの嫌いそうな薄笑いを浮かべ気取った態度でレトリックを弄ぶのとは程遠い、ベタな意味での男らしさを発揮して「なんだと!」と背筋を伸ばし胸を張りいささかも物怖じすることなく激昂してみせる。ギャツビーおまえそんなやつちゃうかったやろ……とも思うし、どういうこっちゃいやいや別段格好良くないって……とも思ってしまうが、それを平然と成立させるのが月城かなとだというのもまた確かなのだ。『今夜、ロマンス劇場で』の健司もたいがいヤバい人物というか、フィクションから出てきたモノクロ世界のお姫様よりよっぽど実在性の薄い"怪物"なのだが、一切その事実を見て見ぬふりすることなく、しなやかさと誠実さをもって青春群像の1ページに自らを刻みつつ、しかしさっとそこから(美雪の手だけを引いて、すなわち美雪の手だけは引かないで)抜け出してしまう。

月城かなとといえば、『BADDY』におけるポッキー巡査の最期のことを良くも悪くもひとつのモニュメントのようなものとして想起する。グッディの目の前で身を挺して使命に殉じたポッキーは、グッディに近寄る隙を与えることなく飛び出してきたスイートハート(クィアでありつつその実家父長制的なマッチョイズムにきわめて従順な存在)の腕に抱き留められ、一方的に保守=共同体的な「男らしさ」の承認を授けられるという名付けの暴力に不可避的にさらされながら息絶えるほかなかった。この残酷なまでのアンビヴァレンスの逆照射というか、面倒くさいまでの文脈の折り重ねられぶり。月城かなとはここでもやっぱり炙っているのだ。面白いなあ……。

(そしていまの月組の、風間柚乃はもちろんのこと、明日への音楽で楽譜をリテラルに読み、そこに書かれているとおりに歌うことの重要性(の《再》発見)を語る礼華はるなんかにもまた強く胸を打たれるのだった、この辺りの学年の見事に粒立った月男たちよ!)

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