「ぼくは勉強ができない」に救われたこと
ヨーグルに「出会ったころ、凛子と書店に行って『ぼくは勉強ができない』をすすめられたね。僕はそれで初めて山田詠美を読んだ」と言われたのだが……思い出せない。
確かに私は「ぼくは勉強ができない」が好きだ。
一番好きな山田詠美の小説は「風味絶佳」だけど「ぼくは勉強ができない」は「好き」というだけでなく、どん底にあった私のプライドを救ってくれた恩人のような本でもある。
主人公は、高校生の時田秀美くん。
母子家庭で、お母さんと祖父の三人で暮らしている。バーにお勤めの桃子さんという年上の女性と恋愛中。
勉強はできないけれど、サッカーが好きで、かっこよくて、女の子にとてもモテる。
読み始めてすぐ、秀美くんの台詞に衝撃を受けた。
クラスメートで学級委員の男の子との会話シーンだ。
この男の子は勉強がよくできる。そして、それを誇りにしている。そこまではいいのだが、なぜか勉強ができない子を馬鹿にする。
勉強ができなければいい大学に入れないし、いいところに就職できない。ろくな人間になれないと秀美くんに忠告するのだ。
父に似たようなことを言われていた私は胸がチクリとした。
父は弟と私をよく比較し、私を馬鹿にした。
きっかけは弟が中高一貫の私立中学に入学して、京都大学への進学を意識し出したからだろう。公立高校に通う私を「お前はどうでもいい」とか「お前はダメな人間」と言い続けた。
それまで愛されていたと思っていただけに、父の変わりようは私を深く傷つけた。そして愚かにも父の言葉を信じてしまう。
私は勉強ができないダメな人間で、私と弟は住む世界が違っていて、私のような人間は、弟のような人たちを見上げる生き方しかできないんだって。
悔しいし、一言も言い返せなかった自分を歯がゆくも思う。
もう高校生なのに無責任な大人の言葉に翻弄されたことも、まだ高校生なのに自分の将来を決めつけてしまったことも情けなくて、自分に腹が立つ。
だから、秀美くんの返しが痛快だった。
秀美くんは素直に彼を「すごい」と認める。「その成績の良さは尋常じゃない」と。
でも、最後にこう付け加えるのだ。
「でも、お前、女にもてないだろ」
思わず吹いた。
でも、そのときに気がついたのだ。
そういや、弟も全然モテないなって。(すまない、弟よ。お前はいい男だと姉ちゃんは思ってるぞ)
そして弟と比較したら、私はとてもモテることに。
弟は男子校だったし理系だったから女性の少ない環境に身を置いていて仕方なかったこともあるが、それでも学生時代、全く彼女がいなかった弟と彼氏がいなかったときがない私では、見えてる世界もまた違うんじゃないかと思ったのだ。
弟が未知の経験を、私は確かにしているのだから。
誤解のないように書いておくが、勉強ばかりして恋人がいなかった弟を馬鹿にしているわけではない。
私は父の言うように弟と違って自分は選択肢が少ない生き方しかできないと思っていた。
これはある一面では事実だ。
就職活動では日本の学歴社会を痛感したし、私が選べる仕事は弟と比べて少ないことも感じた。
でも、私は決して父の言うように人生が底辺なわけでも終わったわけでもない。
弟に私にはない選択肢があるように、私にだって弟にはない選択肢がたくさんある。きっとある。
少なくとも、私が経験した恋愛は私という人間を深くしたように思うし、なによりすごく楽しい。
私の人生、まだまだ捨てたもんじゃない。私の人生はこれから絶対面白くなる。
「ぼくは勉強ができない」を読んでいたら、そんなふうに思えた。救われた。
僕は思うのだ。どんなに成績が良くて、立派なことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったら随分と虚しいような気がする。
「人は見た目じゃない」というご意見もあると思う。
でも、顔と言葉は表裏一体なんだと思う。
人の心に届く言葉を放つ人間の顔は、イケメンとか美人という言葉では測れない「いい顔」をしている。
秀美くんの顔は、きっと「いい顔」なのだ。そう思わせる名言が「ぼくは勉強ができない」にはたくさんある。
香水よりも石鹸の香りが好きな男の方が多いから、そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水をつけている女の人の方が好きなんだ。
好きな女と寝るのは本当に楽しい。けれど、世の中にはこの喜びに目を向けない人々がたくさんいる。なんと不幸なことだろう。
正直、こんなことが言えてしまう高校生なんていないだろうし、いかにも女性が書いた男の子だなとも思う。
秀美くんはフィクション臭がちょっと強すぎるキャラだ。
でも私は彼が大好きだ。
こんなかっこいい男の子、せめて小説の中でもいい。存在してほしい。そして私のような人をたくさん救ってほしい。
ところで、この「ぼくは勉強ができない」は、私たち家族にちょっとした波乱を巻き起こした。
弟が初めて大学受験に挑んだ時のこと。
現国の問題が全くわからなかった、と真っ青になって帰宅してきた。
父と母はオロオロしていた。
よほどできなかったのだな、と後で問題を読んでびっくりした。
「ぼくは勉強ができない」が出題されていた。
弟には解けなかったと思う。
弟にあの世界はわからない。父と母にも理解できない。
あの家族の中で、あの世界が楽しめるのはきっと私だけだ。
そして、それは勉強ができることよりもすごく幸せなことだと私は思ってる。