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「忙しい」

ヨーグルのことをたくさん書いてきたので、それらをまとめてマガジンを作った。
タイトルは「ヨーグル殿の13人」

これは彼の担当編集者さんの数が、たまたま大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とかぶったので、これ幸いとタイトルにしたのだ。
大手出版社になると部門別(文庫担当とか海外担当とか)に担当さんがいるので、実際は13人以上いるのだが一社に一人、メイン担当さんのみを数えて13人にした。

さて、現在、ゲラ直し真っ最中のヨーグル。
彼にホワイトデーを兼ねて食事に行こうと誘われた。

「でもゲラの〆切が近いでしょ?」
「いいよ。食事ぐらい行ける」

「でも、せっかくのお食事なのに〆切が迫ってたら楽しめないんじゃない?その仕事が終わってからでいいよ」

「でもゲラの〆切の一週間後に連載の〆切があるだろ。その〆切が終わったらA社の〆切があるだろ?結局、〆切はずっと続くわけだからいつ行ったって同じだよ」

たっ、確かに。

今年に入って新シリーズが始まったが、依頼を受けたのは2,3年前だったと思う。どうしても後回しになる書き下ろしにいたっては、10年以上お待ちいただいているものもある。こんなふうに〆切に追われる生活を、彼は何年も続けている。

彼はとても忙しい。
でも……。

「ねぇ、ヨーグルは私に『忙しい』って言ったこと一度もないね」
「そうだったか。一度ぐらいあるんじゃない?」

いや。私の記憶する限り一度もない。
そして、それは私にとって、とてもありがたいことでもある。

子供の時、母は「いつ座ってるの?」と言いたくなるぐらい、いつも動き回っていた。止まってしまったらもう動けなくなるって思ってるんじゃないかというぐらい。
父は、毎晩、酔っ払って夜中に帰ってくるので、子供のときの私は親に自分ことが何も話せないでいた。だから親は私が学校で何があったかなんてほとんど知らない。
例えば、父が酔っぱらって騒いだ次の日は私が学校でいじめられることも。授業中、気がついたら私が髪を抜いてしまうことも。学校であった楽しいことも嫌なことも、全て私一人の世界のことだった。

それでも一度だけ、母に自分の大好きな小説を知ってもらいたくて、母に「これ面白いの」と話してみたことがある。
当然だけど、母は手にもとらなかった。
自分の好きなものを母と共有できないこと、病に倒れても病院にも連れて行ってもらえないこと、髪を抜き続ける私を見ても「抜いたらあかん」という叱責しかくれないこと。
いろんなことが溢れてしまって、とうとう心が悲鳴をあげた。
私は思わず「寂しい」と漏らしてしまった。

母は持っていた洗濯物を床にたたきつけた。

「お母さんは忙しい!」

そして「あんまりやわ」と何度も繰り返した。私はそんな母の声が聞きたくなくて、急いで布団に潜り込んだ。
二度と、自分のことを誰かに理解してもらおうなんて考えてはいけないと思った。改めて一人で生きるのだと決めた。

忙しくしている人を前にすると私は消えたくなる。
「忙しい」と口にされると、あの洗濯物を抱えた母の「あんまりやわ」という叫びが聞こえてくる。

ヨーグルを見ていると、不思議に思う。
あのときの母とは比較にならないほどの仕事量を抱え忙しくしている彼が、私にただの一度も「忙しい」と言わないのは何故なんだろう。
母みたいにパニックになったり切れたりしないのはどうしてだろう。

もしかして、自分が忙しい状況にあると思っていないんだろうか?

「ねぇ、ヨーグルって……」

思い切って、彼にきいてみた。

「自分のこと忙しいって思ってる?」

彼は笑いながら「思ってるよ」と言ったけど、その表情はものすごく穏やかで、母のあの必死な感じ、あの切迫感は微塵も感じられなかった。

「でも、僕より忙しくしている作家なんてたくさんいるけどね」と言う。
まぁ、そうでしょうけど。

「それに僕は『忙しい』と誰かに言うことは嫌なんだよ」

彼らしいな、と思った。
そして、母のことを思った。

母は私に「忙しい」なんて言いたくなかったんだろうな。
お母さん、私も「寂しい」なんて本当は言いたくなかったんだけど、ごめんね。まだあのときは小さくて、心がそこまで強くなれんかった。

あのときの二人に言いたい。
あなたたち、あと30年もすれば二人でランチに行って、どうでもいいことを何時間でもべらべらおしゃべりするぐらい余裕ができるよ。
二人で楽しくたくさん話せるし、共有できるし、いっぱい笑い合えるよ。

だから、それまでもうちょっと頑張って。