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タレントを作り上げるってこと

あんたは伊藤園のCMにAIで作り上げられた「タレント」が起用されたって話を聞いたことがあるかい?

なんの気なしにいつも通りネットをぶらついていたら、伊藤園がこさえたCMがちっと話題になっているってのが引っかかってきたんだよね。

ざっと見たところ、普通にモニタに映し出された女性は「存在感」を携えているって見えたんだ。
こういうタレントさんが居ても違和感がないよねって感じ。

で、同時に俺たち視聴者が「タレント」って存在に対して何を求めているのかってのがふと気になったんだよね。

今回はメディアと言う媒体を通じて俺等が消費しているキャラクターってやつについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちが消費しているものが何なのかってのを考えておこうぜ。


現れては消えるキャラクター

普通にモニタを経由して、俺たちは多くの個性ってやつと向き合っていると思う。
大手の芸能事務所に所属しているタレントさん、アーティストさんもそうだし、ほとんど個人商店みたいな感じでタレント活動をしているヒトもいると思う。

そして、おそらくはその一人ひとりが自分の存在ってものをメディアって言う商品棚に乗っけることで価値を俺たちに届ける努力を惜しむことなく費やしていると思うんだ。

その意味では、いわゆる「芸能人」と呼ばれるヒトたちもYouTuberと呼ばれるヒトも同じ土俵に立っているって状況になっていると思う。

どうすれば「個性」ってものを際立たせることが出来るのか。
自分という個性の価値ってのは何なのか。

そんなある意味サディスティックと言えるような自己分析の繰り返しがあって、俺たちの手元にその存在感は届けられていると思うんだ。

ところが、当然といえば当然なんだけれど、それらの努力が実を結ぶとは限らない。
多くのヒトは一瞬メディアの中で輝きを放つことがあっても、その輝きを継続させることの難しさってのは想像に難くない。

これはどの業界でも同じことが言えるのかもしれないけれど、そんな努力をどんどん消費しては生み出してという繰り返しによって俺たちの生活ってのが成り立っているってことなんだよな。

作り出された「個性」

で、そんな消費サイクルに乗っかって作り上げられた「タレント」という存在が、完全に無から作り上げられるって言う状況を生み出す土壌ができつつあるってのがこのAIタレントによるCMが示しているものだって感じたんだよね。

何?今までだって「タレント」は作り上げられてきたじゃないかって?
いや、全く持ってその通りだと思うんだ。

世の中で求められている「タレント」が何なのかをリサーチして、その求められる肖像としてキャラクターを作り上げ、市場に放つ。

それは今までもされてきたことだってのは間違いないと思う。

その「タレント」ってものとモニタの向こう側にいる「そのヒト」という個人が持っている性質をマッチングさせるというのが今の一般的なタレントプロデュースってやつだと思うんだよ。

ところが、無からタレントを作り上げられるって技術はこの「プロデュース」って行為に求められる意味合いを変えるんじゃないか?

つまりは求められているものを「どう表現するのか」という制作活動としてのプロデュースって意味合いがデカくなっていくことになると思えるじゃんか。

アニメを用いたCM

でも考えてみると、こういう無から作り上げられたキャラクターを俺たちはすでに消費しているんだよな。

アニメとかでね。

例えばこんなCMあったじゃん。

このCMでは一人の女性の人生みたいなものがこの短い時間の中に濃縮されて表現されている。
しかも声を一言も発することなくだ。
それでも俺たちはこの「女性」の人生ってやつに惹き込まれていく作りになっていると思うんだよな。

アニメと言うある種の記号のようなキャラクター表現ってのがそのキャラクターを受け入れる土壌になっているとも考えられるんだけれど、逆に言えばそう言う土壌が日本という環境にはすでにあるってことなんだよな。

そう考えてみた上で、伊藤園のAIタレントを眺めてみる。

今のところ、年齢を重ねて行くというモチーフはディズニーランドのCMと同じかもしれないけれど、作品としてのクオリティにはまだまだ改善の余地が感じられる状況だと思う。

逆に言えばもっと多くの物語をその先に作り込めるってことなんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが今まで消費してきた「タレント」の意味が変容しつつあるって感じたりするかい?

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