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「合わない」と言う感情との付き合い

あんたは誰かのことを嫌うってことがあるかい?

まあヒトである以上は個人の性格が合わないタイプがあるのは如何ともし難いとは思うんだ。
ただ、その「合わない」って感覚ってのは相当深く付き合ったんじゃなければ、おそらくは第一印象が結構な影響及ぼした結果として生まれてくる気もするんだ。

それがあったこともないヒトだったり、会話したこともないヒトであればなおさらだよな。

そのヒトの書いた本を読んでみた。
そのヒトのネット上での発信を読んだり見たりしてみた。
モニタの向こうでそのヒトの意見を聞いた。

そんな一方通行での第一印象。
それが「合わない」って感覚を作り出しているとしたら、結構もったいないことがそこかしこで起きているってことなのかもしれない。

今回は「合わない」って言う感覚について考えてみる回だ。

ちっと俺たちの抱えている感覚について考えてみておこうぜ。


「合わない」という感じが残すもの

たぶん俺自身いろんなヒトと合わないなぁと感じてきたと思う。

実際ケンカ別れみたいになって、一切連絡も取らなくなってしまったヒトもいる。

ある程度の付き合いを経て「合わない」と感じたり感じられたりするケースを考えてみると、どうもこの感覚は「正義感」ってやつと結構密接な関係があるようにも思えるんだよな。

たとえば、誰かをいじめているヒトを見たとするじゃんか。
何も考えないでその風景を見ていた時に、瞬間的に俺は「ひでえことしやがる」って脊髄反射的に感じちまうわけだ。

で、その後に「いやいや待て待て。眼の前で起きていることの背景もなんも俺は理解できていないじゃんか」って考え直すわけだ。

そんな風に自分の中に起きた負の感情を理屈で抑え込むわけだけれども、最初に感じた不快感みたいなものは心の根っこのあたりに残っているんだよな。

心の根っこに残る何かへのあがき

ワリカシライトな付き合いであれば、その根っこの辺りの小さなしこりってのは、ほとんどノイズみたいなもんで普段は気に留めるようなことも起きない。

でも仕事でもプライベートでもある程度「相手の思惑」と「自分の思惑」に利害関係みたいなものが発生したとき。
俺たちはそのギャップを「正義」と言う言葉で着飾ってしまうんだよな。

そうしないと、自分の心の奥底にある「何か」を自分自身が許せなくなっちまう。
自分で変えようのない自分ってのを見つめ続ける事ができるほど、俺たちは強くはない。

だから俺たちは「正義」と言う言い訳を使うしか無いってわけだ。

おおう、俺たちは俺たちの弱さから目をそらすために相手を嫌っちまうってことになるのか。
こいつはちとヘビーだ。

何かを抱えながらヒトと付き合う

と言いながらもだ。
俺たちは実に多様なヒトと付き合っていく必要がある。

なぜって、ヒトってのはそう言う生き物だからだ。

ヒトが今の今まで生き延びてきたのはサピエンス全史で言うところの認知革命を経て「虚構による協力」という特殊能力を持てたからだ。

逆に言えば、ヒトはヒトと協力し合わないと生き延びることが出来ないってことね。

ところが、この虚構ってのはヒトが協力し合うのにも必要だけれども、ヒトが否定し合うのにも必要になるんだよな。

もっと言えば「誰かを否定する虚構」があるから協力できるなんて言う救いようのない現実もある。

でも否定の先にあるものは「何か」を抱えながら生きるって言う修業の日々だ。

この修行を出来るだけ心安らかにしのいでいきたいんだよな。

それに必要なものって何なのか?

たぶんだけれど、相手の立場を理解するための知識ってやつなんじゃないかな。

例えばさ。
やれ大韓民国のヒトの行動がどうのこうのだとか、中華人民共和国共産党の一帯一路が暴力的だとかいろんなネガティブな印象が飛び交っているじゃんか。

ところが、「なんでそうなのか?」っていうことを多方面から調べるってのは実に難しい。

調べる過程で、どうしても耳障りの良い自分にとって都合の良い意見ってのが引っかかってきてしまうからね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの心の根っこにある何かをどう取り扱っていけば良いんだろうな?

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