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[小説][バラッド]-序章-③

歌えないオッサンのバラッド
-序章-③


「葵」のママはこの商売の鉄則通り、最初の言葉かけには細心の注意ってのを払っているんだと思うんだ。

間違っても目の前で泣いているヒトにいきなり事情を聞くなんてことはしない。
ただ、優しい笑顔で酒を出してくれる。

それでどれだけのヒトが救われてきたんだろう。
この業界も青息吐息なのは明らかなんだと思うんだけれど、そんなことはお首にも出さない。

なら、俺たちは少しでもこの「葵」にお金を落としていく方が良い。
ここは止まり木だ。

誰だって羽を休めに来て良いところだ。

「あ……じゃあ、ジントニックで」

はい、と短く返事をして、ママは手慣れた手つきで冷蔵庫からグラスとトニックウォーターを取り出し、氷を入れドライ・ジンをそそぐ。
そこに氷に直接当たらないようにトニックウォーターを注ぎマドラーで一回し。

まあ、教科書に載っているような作り方だな。

その手つきを見て俺は思わずつぶやく。
「相変わらず見事なお手際だねぇ」

「褒めてもお代はまからないよ」
ママの笑顔の横顔を眺めながらのバカ話も悪いもんじゃないんだよな。

「はい、おまちどう」
ママはそう言って女性の前にできあがったジントニックを静かに置く。

「最近の若い女性はジントニックを飲むんだなぁ」
誰に言うとでもなく俺の口から漏れ出てくる言葉。

「出たよ、オッサンの世代ギャップ話」
タカがちゃかす。

「うるへ~!こちとらピチピチの50代だっつーの」
「オッサンじゃん。オッサンとしては非の打ち所がない。ヒトとしてはありまくりかもしらんけど」
「ちげぇねえや」

またバカっぽく大笑いしてみる。

その大笑いを眺めながら、トムは言った。
「ここはあんたの逃げ場所になれそうかい?」

眼の前に置かれたジントニックを一口女性は飲んだ。

ふう、とため息とも酒の香りを楽しんでいるとも取れる息を漏らす。

「で、何から逃れたいんだい?」

俺の歪み

トムが彼女のその息が出た時に、トムは優しくそんな言葉を続けたんだ。

まあ、ほっとくわけにもいかんしね。
なんでって?
泣くほどのことがあってここに来たんだぞ。

話くらい聞いてやるのが筋ってもんだろうが。

何?下心丸出しだって?
バカ言え。もう恋愛だの結婚だのは懲り懲りだ。
あんなに辛い別れを、俺はもう二度と味わいたくないんだよ。

俺の妻はものすごく真面目で周りに気を使うやつだった。
そんなところに惹かれて俺は彼女と結婚をして真人が生まれた。

ここで、俺は決定的なミスを犯す。
産後ケアセンターでの体力回復がある程度進んで妻が家で過ごす様になっても、俺はいつもどおり仕事をしていたんだ。

どんどん、妻の顔はやつれていき、「ありがとう」の代わりに「ごめんなさい」という事が増えていった。

ある日、家に帰ると、ぐちゃぐちゃに泣きはらした妻が玄関で出迎えてくれた。
「ただいま……ってどうしたんだ?大丈夫か?」

「私………もうダメ!」

そう言って、玄関から妻は飛び出していってしまった。
すぐに追いかけようとしたが、真人を置いてきぼりにするわけにもいかない。

抱っこ紐でフル装備をして、真人を抱きかかえて外に出たときには妻の姿はどこにも見当たらなかった。

どれだけ探し回っただろう。
いくら探しても妻は見つからなかった。
緊張感のせいで、胃がひっくり返りそうな、心臓を鷲掴みにされたような感覚が全身を覆う。

どこだ。どこだ。どこだ!!!

明らかに自分が正気を失っていくのがわかる。
そんな俺を現実に引き戻してくれたのは真人の鳴き声だった。

寝入りばな起こされたばかりでなく、乳幼児は2時間に一度授乳が必要だ。
当然俺にそんな用意もあるはずもなく、一旦家に帰ることを余儀なくされた。

帰り道、仕方なく警察に電話をして協力を仰いだ。
警察は、俺に家にいてくれと行ってきた。
なにかの拍子で家に自分で返ってくるかも知れない。
その時に家に誰もいないのはかえって良くない。
そんな説明だった。

でも、翌日の朝。
妻は変わり果てた姿で近所の10階建てマンションの敷地内で発見された。

飛び降り自殺だった。

あのときは感情と体がばらばらになったような気分だった。
必死で胸元の真人座っていない首を支えながら、声にならない声で妻の名前を呼び続けていた気がする。

現場検証やらなにやらあったような気がするが、ほとんど覚えていない。
葬式なんてもっと何も覚えていない。

ただ、妻のやっていたことを思い出しながら、見様見真似で真人にミルクをあげたり、あやしたり、寝付かせたりしていた気がする。
ベビーシッターさんを雇ってしのいだりもしたけれど、とてもじゃないけれど、仕事なんて出来る状態じゃなかった。

そんな俺を救ったのは、またも真人だった。
真人はこんな俺に笑みを向けてくれたんだ。

このとき俺は初めて「父親」になった気がしたんだよ。

それからの日々は怒涛の日々だった。
真人を育て、仕事をこなし、あっという間にときは過ぎていった。

気がつけば真人は大学生になって、高校から付き合っている彼女ともうまく行っているみたいだ。

まあ、父子家庭なんてのはろくすっぽ会話は弾まないから、細かなことはわからんけれどね。

「最近、彼女とうまくいっているか?」
「いってるよ。大丈夫」
「そろそろ大学も卒業だな。内定もらった会社ではやってけそうか?」
「まだ、まともに働いてもいないから分からないけど、みんな生き生き働いている感じはしたよ」

いつも、真人との会話は「そうか」という俺の言葉で終わる。

そんな経験があったからかも知れないけれど、困っているヒトが目の前にいると、ほっとけ無いんだよ。

背景は聞いたことがないからわからないけれど、タカもトムも同じようなもんだろうと勝手に思っているんだ。

そんな雰囲気が彼女にも伝わったのか。
それとも誰かと話がしたくて「葵」に入ってきたのかは分からない。

それでも彼女は話をポツリポツリと言葉を紡ぎ始めたんだ。

つづく


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