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オードリー春日という立派な大人

あんたにも意味もなく涙が出てくることってあるかい?

そんなふうに書くと「オマイ、どんだけ不安定な若者気取ってんのよ」って話になっちまうけれどさ、オッサンってのは涙もろいもんじゃんか。

世の中で出回っている激烈不幸なニュースでも涙するし、ほんのちょっとした優しさみたいなものがあったってニュースでも涙する。

同じ涙するなら優しさに涙したいもんだよな。

今回は、その優しいニュースを噛み締めてみようって回だ。

まあ、あれだ。
オッサンの道楽に付き合ってくれよな。

オードリー春日は優しかった

今回、俺がぐっと来たニュースはこれだ。

ざっくり言えば、4歳の少年が勇気を振り絞ってオードリー春日さんに手紙を渡したって話なんだよ。

それだけ聞くと、なんで泣くのよって話だとは思う。

そらそうだよな。
ファンから手紙を手渡しされるなんてことはオードリーレベルなら普通にあることだと思うんだ。

ポイントは4歳の幼児が勇気と希望を手紙というものに込めていたって事実を瞬時に春日さんが理解した上で、その幼児が最も受け止めやすい「オードリー春日」というキャラクターで受け止めたということなんだと思う。

きっとだけれども、この少年は本当にワクワクしながらその当日を迎えたんだと思う。
普段は何気なく見ている「オードリー春日」がその日にはその少年にとって最も特別な何かになっていたんだと思う。

それは幼児特有の一過性の感情かもしれない。
それでも、その感情がその瞬間にあったことは疑いようがないことだとも思うんだ。

その感情を受け止めるための言葉。
「おお、どうした少年!」
ここにぐっと来ちまうわけなんだよ。

少年が「オードリー春日」に求めていたもの

その時の少年は「オードリー春日」に何を求めていたのか?

4歳という年齢を考えると、「オードリー春日」というキャラクターはどいう言うキャラクターだったんだろう?

おそらくは「立派な大人」だったんじゃないだろうか?

春日さんが構築してきたキャラクターとして、肉体派芸人という側面があると思う。
一時期ちょっと緩めの体つきになったこともあったけれども、番組の企画等にも乗っかることでキッチリと肉体派芸人ってポジションを作ってきていると思う。

4歳の幼児にとって、立派な体格を持っていることはほとんど「立派な大人」って認識とイコールになると思うんだよな。

つまり、少年の認識に答えるためには「オードリー春日」は立派な大人になる必要があったわけだ。

「オードリー春日」の立派な大人の演じ方

で、実際のところ。
俺たちオッサンは「立派な大人」なんてものが軽々に存在できないものだってことを肌で感じている。

どんだけ頑張っても人間である以上は、妥協だったり、搾取だったり、ありとあらゆる汚い側面を持たざるを得ない。

もちろん法を犯すような真似はしないかもしれないけれども「汚い」ことをせざるを得ないってのが現実だ。
清廉潔白で生き残れるほど、この世の中は緩くない。

でもだ。
それでもだ。

4歳の少年が「立派な大人」を求めてきたときに俺たちオッサンはどう振る舞う必要があるのか?
「立派な大人」を演じるってことだろう?

そしてその「立派な大人」ってのはヒトによって捉え方が違ってくる。
機動警察パトレイバーの後藤喜一に見る「立派な大人」と安倍晋三に見る「立派な大人」ってのは完全に違うものに見えるじゃんか。

それ故に、春日さんは演じてくれたんだと思うんだ。
「オードリー春日」という大人を。

俺たちオッサンは世の中で長くしのいできたので、自分に求められているものがなにかってことをすごく考えることがあると思うんだ。

それでもその「なにか」の実体を理解する事ができるってのはレアだ。

「オードリー春日」というキャラクターに求められているモノ。
それを春日さんは「おお、どうした少年」という言葉に込めたんじゃないかって思ったんだよね。

その覚悟みたいなものを感じて、涙が出てきたんだよ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちに求められているなにかにどう応えて行けばいいんだろうな?

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