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ゲームの与えてきたもの

あんたはゲームがスキかい?

俺なんかはゲームが人生の一部だって確信できるくらいにスキなわけだけれども、世の中にはゲーム何ぞやったこともないわボケってヒトも普通にいるってのは理解している。

その確率はマンガ読んだことありませんけれど、って言うヒトよかちっと高い感じだと思うんだけれど、実際のところどうなんだろう?

あんまそう言う統計って見たことないんだよな。

でも、実際にゲームしたことないぜってヒトは普通に俺の身の回りで存在していたってのが俺の経験ってわけだ。

今回はゲームをしたことがないヒトにゲームの必要性をどうやって伝える事が出来るのかってのを無理やり考える回だ。

まあ、俺の自己中に付き合ってくれよな。

ゲームの価値と自分の感覚

俺がガキンチョの頃からゲームをしていて、ゲームってのが価値ある存在だって感覚を持っているってのが現実としてある。

でも、なんでゲームに価値があるって俺が感じているのかってのを言語化出来てたか?って言われれると「そうでもないよな」ってなっちまう。

シンプルに俺が楽しいからゲームしてただけだし、その楽しいって感情をそう思っていないヒトに押し付けるのも違うって感覚もあったわけよ。

でも、なんで自分がゲームに価値を感じるのかってことを言語化してないってのはちっと俺としては怠慢な感じもするわけだ。

俺が楽しいものを楽しいって感じられないやつは知ったこっちゃないってのはオッサンとしてはあまりにも優しくないじゃんか。
いや、自分の感覚を押し付けるのはもっと優しくないんだけれどね。

押し付けるんじゃなくて、俺がこう考えている。

そう言うことを言葉にするのはきっとだけれど大切なことだと思うんだ。

ゲームをすることで得られるモノ

一言でゲームと言っても実に多くの種類がある。

将棋やチェスにオセロと言った、相手の手の内が完全にオープンにされているゲームもあれば、家庭用ゲーム機ではアクション性を伴った勝負を前提としたものもある。
同じ家庭用ゲーム機を使ったゲームでも、決められたストーリーをなぞっていく様なRPGもあれば、シミュレーションゲームのような様々な要素を加味しながら進めていくゲームもある。

ぶっちゃけ、ゲームって言葉で一括りにするには表現されている娯楽の範囲がデカすぎるんだよな。

そらそうだよな。
メンコもオセロもファイナルファンタジーも全部「ゲーム」なんだぜ?

しかもそこから得られるものも全然別物だ。

メンコやオセロは勝敗と言う結果がついてくる。
多分だけれど、ゲームってやつが世の中に出てきたときにはそう言う勝敗ってのがセットになってたんだと思う。

ところが広い意味でのコンピュータがゲームの「相手」をしてくれるようになった瞬間にゲームってのは「物語を表現するツール」に意味を変えた気がするんだよ。

例えばだけれども、インベーダーゲームってのがあったじゃん。

何?知らない?
さてはあんた、若者だな?

まあ、知らないなら知らないで良いんだけれど、このめちゃくちゃシンプルな画像の先に、俺たちは感じていたわけよ。

「物語」を。

突如攻めてきたエイリアン。
そこに手持ちの武器でなんとか対抗する地球にいるヒト。
その圧倒的な戦力差。
それでも「地球のために」とか普段考えもしないようなことを理由に戦うヒト。

そんな物語を感じるわけよ。

俺たちはゲームを通じて物語を得ていたってわけだ。

「物語」の解像度

そして、時は経ち。
ゲームが表現している世界観ってのは解像度を増し続けてきた。

俺がチェスをやりながら感じてきた物語ってのがある。

ポーン(将棋で言う歩)が前進することによって、自らの命が奪われるって物語に俺は酔いしれてきた。

ポーカーで得られる偶然に自分の「何か」をかける物語に酔いしれてきた。

ウィザードリィで地下迷宮に命をかけて挑むヒトたちの物語に酔いしれてきた。

そのどれもが俺の「想像力」ってのを必要としてきたものだと思う。

でもさ。
今のゲームは俺の「想像力」を必要としてはいない。

全部、きちんと提供してくれる。

喜びも、悲しみも、怒りも、苦しみも。
全部分かりやすく提供してくれる。

それが悪いことなわけじゃない。
単純に、俺たちは苦労せずに「物語」を手に入れることが出来る環境にいるって事実だけだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは与えられた「物語」に満足できていると感じるかい?

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