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SNSで友人になるってこと

あんたもここnoteだったりfacebookだったりというSNSでのつながりってのを意識することがあるかい?

いつも濃い目の表現をぶつけてくれるきゃらをっさんがこんな記事を投稿していた。
#主に濃いのはキャラクターだと思うけれど

要約すると、人間関係ってのはプラスの感情もマイナスの感情も共有して成立しているはずなのに、SNSでマイナスの感情を共感した上で非難するって難しいよねってことかな?

確かに、そうかも知れないと思ったんだ。

ゲラゲラ笑いながら話していて、ふと出た言葉を捕まえて「おめー、それはちげーよ」って言ってくれるヒトって、オッサンになったらほぼいなくなるしね。

あ、でも家族にはワリカシ普通に「おめー、ちげーよ」って言ってるな。俺。

今回はオッサンにとっての友人ってのを考えてみる回だ。

まあ、家族ってものを抱えた上で成立する友人関係ってやつを整理しておこうぜ。

好意を感じることと友人であること

まず最初に整理しておきたいのは、好意を感じることと友人であることは似て非なるものだってことかもしらん。

好意を感じるってのは、ぶっちゃけ自分一人で成立するけれど、友人であることは相手との関係性で初めて成立するわけだしね。

例えば、今回取り上げさせてもらったきゃらをさんの表現から俺はめちゃくちゃ好感を持っている。
でも友人ですか?って聞かれたら自信を持って「はい」なんてとても言えない。
#サシ飲みとか誘われたら普通に行くと思うけれど

つまりは、きゃらをさんの言う通り、マイナス面を共感するという儀式を経由出来ていないんだよな。

マイナスを共感するということ

学生時代とかさ。

友達としゃべくっているうちに、いつの間にか世の中の課題みたいなことに対して意見交換が始まり、気がつけば怒鳴り散らかして喧嘩腰になっていくなんてのが頻繁にあった。

思い出してみると、きゃらをさんの友達って存在の意味にバチコンとはまった関係性だったと思う。

お互いの対等性を大前提として、お互いの「意見」を「批判」することを恐れずに済む存在だった。

現状、この関係性は家族では成立させることは出来ていない。

妻はあまり言葉をロジカルに使うことも使われることもスキじゃない感じだし、息子はまだロジカルに言葉を使うほど経験を積んでいないしな。

まあ、あと10年もすれば息子にロジカルに言い負かされる未来もあるんだろう。楽しみだなあ。

SNSで批判を受けるってこと

実際、X(Twitter)で誹謗中傷が飛び交うなんてニュースはよく聞く。

何度も書かせてもらっている木村花さんの悲劇というか事件はその象徴とも言える話だよな。

この誹謗中傷ってのの問題は「批判意見に対する非対称性」ってやつだと思うんだよ。

まあ、俺はこの事件が起きるまでは木村花さんのことを認識できていなかったんだけれども、テラスハウスって人気番組なんだろ?
かつ女子プロレスラーってコアなファンが居るもんな。

言葉は悪いけれど、誹謗中傷ってのは有名税だなんて意見もあるのかもしれない。

これは、SNS上で人気を得たヒトについても同じことが言えるのかもしれない。

ここで言う人気ってのは、発信に対して感情を刺激されるヒトが多いってことね。

俺の場合は、その意味ではあんまり感情を刺激する発信じゃないってのもあるのかな?
誹謗中傷を受けた記憶がない。
違う意見をもらったことは普通にあるけれど、それはあくまで意見交換であって、誹謗中傷とは感じられない。

たぶん、俺の書いている内容はあんまし感情を刺激することが少ないってことなんかね。
なんか発信をする立場としては結構な課題感があるな。

まあ俺自身あんたのことを怒らせたり悲しませたりしたいわけじゃなくて、こんなのオモロイべ?って共感したいって感じだからな。

いろいろ考えてみるオモロイってのを含めてね。

それが出来たとき、俺はあんたの友人になれたって思えるんだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

俺とあんたは友達になれると思うかい?

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