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「男らしさ」「女らしさ」という感情

あんたは今の世の中で「男らしさ」だとか「女らしさ」ってものに対する世の中の意識が変化しているってのを感じているかい?

LGBTQ+のキーワードの元に性的マイノリティーのヒトの存在ってのをふつうのコトとして受け止める必要があるって意見が一般的になってきている。
それそのものは大切なことだという大前提を踏まえた上で、「男らしさ」や「女らしさ」って価値観そのものを否定するような意見もチラホラ見るようになってきた気がするんだよね。

でちょっと考える。「男らしさ」と「女らしさ」ってのは価値が無くなったってことなんだろうか?

今回は性差とそれに伴う価値観について考えてみる回だ。

実にデリケートなこの話について考えてみようぜ。

○○らしさに求められていたコト

今のように性的マイノリティーに対するオープンな感覚が世の中で認められていなかったとき。
「男のくせに」とか「女のくせに」なんて乱暴な言い方が普通にまかり通っていたとき。

世の中には男としての価値。女としての価値ってのがたぶん今よりもはっきりと存在していたと思うんだ。

で、改めてそのときに存在していた男女の価値ってものが何だったのかって考えてみる。
おそらくはその時の社会情勢の中で性別ってカテゴリで役割分担を決めるのが普通に受け止められていたんだと思うんだ。

男は社会で働け。女は家庭を守れってあれだね。

俺たちの親の世代では、まだまだ共働きってのがどちらかと言えばマイナーで、男の収入で一家が暮らしていくってのはリアリティがあるくらいに好景気だった。

それ故に家庭内で役割分担をすることが効率的だったってわけだ。

その役割分担をスムーズに行うために性別ってのが重宝されたってことなんだろう。
日本全国でサザエさんの家みたいな家庭を模倣しようとしていたって感じかもしれない。

〇〇らしさの価値

で、時は経つ。
かつての好景気はどこ吹く風。
俺たちは凍え死んでしまうほどの不景気の中で暮らしている。

当然、共働きをしていかないと生活は立ち行かないので、自然と家庭内での役割分担も変化していく。
家事は当然のように家族全員で分担しながらすすめるし、自分の得意な分野での分担をしていくのが最適解ってなっていると思う。

その得意分野ってのは俺たちオッサンの世代はまだ性別によって得意なジャンルが決めつけられて育ったってのがあるから、現実として身につけているスキルも「男っぽいもの」「女っぽいもの」になっていると思う。

でも、今の若い世代はガキンチョの頃から「男女平等」って刷り込まれているわけで、家庭的な料理を作るスキルを持つヒトも男女両方にいるし、パソコンを器用に使いこなすスキルを持つヒトも男女両方にまんべんなくいる。

そうなってくると、「○○らしさ」って価値観がじゃまになってくる。

ところが、生物的な性差ってのは現実としては無くなっているわけじゃないので、そう言う得意分野の差があるってのも実態だ。
平均的に筋力は男性が付きやすいし、脳梁という脳みその左右をつなぐ組織は女性の方が多いので、感情と理性のバランスを女性の方が取りやすいって研究もあるらしい。
そう言う性差ってものについてキチンと把握しておく必要があるんだとは思うんだけれど、性差について考えることそのものがタブー視されているようなケースもチラホラみるんだよな。

そこに性的マイノリティーの課題が絡んでくると、ホントに難しい。
体としては女性の能力を持っているけれど、男性としての能力を身に着けたいって状態になったときに、役割分担としてはきっと女性の能力を活かす分担が良いかもしれないけれど、確実にそれは本人の人生の質を低下させちまう。

○○らしさへの感情

更に言うなら、○○らしさってものに俺たちは魅力を感じているってのも現実だと思う。
男性が男性らしくある様子にも女性が女性らしくある様子にも、俺たちは好感をもってるじゃんか。

俺のスキな物語の池袋ウエストゲートパークでも、性自認が男性である女性に向かって、主人公のマコトが「男だろ!!」って男性としての行動を促すシーンがあるんだ。

そのシーンは男女が持つ役割の魅力ってものが全面に描かれていた。

多分、今の世界でもこの男女が持つ魅力を感じるヒトは多数派だと思うんだ。
その感情に蓋をして「男らしさ」「女らしさ」ってのを廃絶しちまうのは、生き物的にも社会的にも歪をもたらしちまうと思う。

かと言って、「男のくせに」「女のくせに」って価値観には俺たちは戻れないし、戻っちゃダメだとも思う。

なあ、あんたはどう思う?

男女の差って現実を俺たちはどうやって扱っていくのが良いんだろうか?

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