自粛警察の危うさ
自粛警察。
なんか今という時代を象徴するような言葉だよな。
基本、自粛ってのは政府だったり自治体からの「お願い」であって、それに対する罰則ってのは基本ない。
まあ、営業自粛しない企業名の公表ってのは罰則にあたるかもしれないけれどね。
で、この自粛警察って行為。
ざっくりとした俺の解釈で行けば、「自粛していないやつはイクナイ。イクナイことなんだから責められてしかるべき」って態度でネット上やオフラインで自粛していないヒトを責め立てるってことだって思っているんだけれど、あってる?
どうにも、SNSによって俺たち個人が発信する場を得たことによって、世の中は確実に監視社会への道をひた走っているってことなのかもしれない。
今回は、今という時代をどうすれば監視社会から遠ざけることが出来るのかってことを考えてみる回だ。
このまま行くと、俺たちは俺たちの正義に押しつぶされてしまうと思わないか?
自粛という正義
今の状況は感染拡大の正念場だってことは紛れもない事実だと思う。
それ故に自己を律してSTAY HOMEを守っていこうって態度は間違いなく「正しい」態度だと思う。
ただ、その「正しさ」ってのを他人に向けた瞬間に俺たちはある種の違和感のようなものを感じてしまう。
今の状況でいたずらに外出することによって、感染拡大を後押ししてしまう可能性があるのはわかる。
でも、それをしていないヒトに向かって「あんたは間違っている!」って言うのって、問題解決に向けた行動になっていないような気がするんだよな。
表現が適切かどうか微妙だけれども、自粛をしていないヒトの多くは「わかって」やっていると思うんだよな。
そうなってくると、そう言うヒトに「あんた間違っている」って言っても全く響かないっていうか、感情を逆なでするだけっていう状態だけを産み出す行為だと思うんだよね。
でも、それこそ自粛警察と呼ばれる行為をしてしまうヒトは「わかっている」はずなんだよな。
それなのに、俺たちはなぜ自粛警察なんて行為をしてしまうのか?
正義で判断する危うさ
俺たちは正しいとか正しくないとかで物事を判断することが多い。
そして、正義の後ろ盾を得たときに、俺たちはどうにも攻撃的になりがちだよな。
正しくないことは正されなければならない。そんな風に考えてしまう。
まあ、小さなときからマンガやら特撮やらで嫌ってほど見てきたからな。「正義の味方」ってやつを。
ところが、実のところ俺たち大人が守るべきは正義じゃないんだよな。
俺たちが守るのは「法」なんだよ。
なぜかって?
俺たちは正義ってやつを正確に定義出来ないからなんだ。
戦争なんてものが起きるのはまさに正義の解釈の違いによるものだと思うんだよね。
大東亜戦争では日本人が肌で感じていた正義とアメリカ人が肌で感じていた正義ってやつは異なっていたはずだと思う。
しかも、厳密に言えば肌で感じていた正義ってのは一人ひとり全部違っていて、大枠での正義という感覚で国民は束ねられていたんだと思うんだ。
何が言いたいのかって言えば、俺の正義とあんたの正義が同じものを指している保証がなにもないのに、俺の正義をあんたに押し付けるのって、何も生み出さないと思うんだよね。
だから、俺たち大人は明文化された「法」を遵守するように務めるしか出来ないはずだと思うんだ。
そいつがヒトがたどり着いた法による支配って叡智だと思うからさ。
営業自粛を指示できる権限を持つもの
で、一連の営業自粛を要請したり指示出来たりって法的根拠ってやつが何によっているのか。
そいつが「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の45条に規定されている。
ざっくり言えば、パチンコ店のようなヒトが密集する興行者に向けて都道府県知事には営業自粛を要請・指示出来るって法律だ。
そうなんだよ。自粛を求める権限は都道府県知事にあるのであって、俺たち市民には自粛を要請する権利は無いんだ。
だから俺たちがSNSなりに「あそこの店は営業自粛してないのはけしからん」って書き込むのは、俺たちの正義の心に従って不平不満を垂れ流しているだけであって、場合によったら、名誉毀損をしてしまっているのかもしれないってわけだ。
そうなると、俺たちは俺たちの正義に従っているのに、法を犯してしまうっていう本末転倒なことが起きちまう。
そんなの悲しいし、俺たちの不平を垂れ流すだけなら、何も良い方向には向かっていかないじゃん?
だったら、俺たちは「自粛しないのはけしからん」って言う前に「一緒に頑張ろうぜ!」って言った方がまだましだと思わないか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは「正義の味方」を辞めることが出来ると思うかい?
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