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文楽再開の第一歩-第23回文楽素浄瑠璃の会


 世の中がこのような状況で、あらゆるエンタメに影響が及ぶ中、もちろん文楽もその例外ではなかったわけで、4月の大阪、5月の東京などなど、全ての公演が休演を余儀なくされた。その間、国立劇場が過去の公演の収録動画を公開するなど、様々な取組が急きょ行われ、人々の記憶から文楽がなくなったことはなかったはず。そんな中、最新の感染状況に鑑み、満を持して国立文楽劇場で開催されたのが第23回文楽素浄瑠璃の会だ。その後、8月末には若手素浄瑠璃の会も行われ、9月の東京での文楽公演がまもなく始まる。再開第一歩となった公演のレポート。

<日吉丸稚桜-錣太夫の安心感、寛太郎のライブ感>

 今年襲名したばかりの錣太夫の声は、上手の床から語るときと印象が異なるというか、聴こえ方がかなり違うことに驚いた。案外こぢんまりまとまっているというか、2月に国立劇場で吃又の熱演を聴いたときの記憶が新しかったからか、案外淡々と進むんだなという印象。でも、この人の柔らかさのある声質には、独特の安心がある。そういう美点は、不変。ストーリーや設定が複雑で、聴き慣れないと少し難しいところのある演目ではあるけれど、難なく聴くことができたのはその安心感のおかげ。

 寛太郎の三味線も、特に前半はだいぶ抑えられていて、かなり平坦な印象。これまで、多くは連れ弾きの場面で、他の奏者を差し置いて一際目立つあの音色と音量はどこへ、という感じもあったが、後半の盛り上がりとともに、撥を激しく打ち付ける演奏で本領発揮。正にライブ感ゆえの興奮。間に挟まる雄たけびめいた声も、ハイテンションで、異質なものに聴こえるほど(そういう場面で期待される効果が正にそれなので、それでよい。)。

<生写朝顔話-咲太夫の緻密な芸と燕三の奥行き、燕二郎の華>

 やはり、当代唯一の切り場語りの咲太夫はすごいんだな、と改めて思い知らされた。朝顔の女性の声はもちろん、阿曽次郎と岩代、そして宿屋の主人…と男性の声の演じ分けが鮮やかなのにとても自然で、臨場感にあふれていた。観客の息をのませるような間の取り方も絶妙。これらは計算し尽されてのことなのだろうなと、その緻密さに圧倒される。語りの芸は、かくあるべしという感じ。文楽の太夫に限らず。

 燕三の三味線は、やはりこの人の奏でる音色がすごく好きだと再確認。全体に、どこかに影が落ちるというか、一筋縄ではいかないような味わい深さがあると感じるのはなんなのだろうか。ピーンと空気を直接割って一直線で耳に伝わってくるというのではなく、1枚の布越しに聴いている感じというとかなり語弊があるけれど、それぐらい奥ゆかしさのある多層的な音色。でも、かといってライブ感がないかと言うと、全くそんなことはなくて、むしろその正反対。しっかりとライブ感を感じさせてくれるところが快い。

 燕二郎の琴は、出番は短いけれど、跳ねるような高音はとても煌びやかに響くし、三味線とのユニゾンは、大変華やか。作品に彩りを添える効果をこれ以上ないほどよく示した。もっと聴いていたいと思うような素晴らしい活躍。

<重の井子別れ―千歳太夫の自由自在さ、清介のフィット感>

 千歳太夫の伸び縮み自由自在の遊びのある語りで、具体的な映像がぱっと浮かび、これまた語弊を恐れずに言えば、まるでアニメを観ているかのように聴くことのできる楽しみがあった。三吉や姫の子どもじみた語り口は正にコミカルでアニメのようで、この人の持ち味が過不足なく発揮された感じ。終盤は、鬼気迫る語りで感動する内容だったので、満足度も高かった。咲太夫から続けて聴いたので、こういうタイプもあるのかという好対照。

 清介の三味線は、千歳太夫とよく息が合っていたけれど、それゆえか、三味線独自の主張みたいなものはやや感じにくかった。もっと太夫とのデッドヒートのような緊張感があっても面白かったのかもしれない。それと、終わってみれば取るに足らないことだが、冒頭、割と派手に間違えた、かな。珍しい。

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