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ニューヨークへ捧ぐ歌。『ポール・サイモン 音楽と人生を語る』からプロローグを公開。

「サウンド・オブ・サイレンス」「ミセス・ロビンソン」「明日に架ける橋」など数々の名曲を生み出した、アメリカのポピュラー音楽の歴史におけるもっとも偉大なソングライター、ポール・サイモン。サイモン&ガーファンクルとして時代の寵児となるも、そこに安住せず、ワールドミュージック、アメリカーナを取り入れ、独自のポップミュージックを開拓していった。アメリカ本国ではディランやレノン=マッカートニーといった同時代のソングライターと比肩するような、単なるいち音楽家ではない、”英雄”として尊敬されている(2006年には、 米タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に、唯一のミュージシャンとして選ばれた)。
 先日、サイモンは、コロナ禍によって大きな窮地に立たされているニューヨーカー、そして世界に向けて、「ボクサー」をうたった動画を自身のYouTubeチャンネルにアップした。

「ニューヨークのみんなへ捧ぐ」。かつてテロの恐怖を乗り越えたように、再び彼らの街が復活することをサイモンは信じている。また、この世界も決して打ちのめされることはないであろうと。

 ポール・サイモンがニューヨーカーに向けて「ボクサー」を歌うのは、これが最初ではない。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後の「サタデー・ナイト・ライブ」でも、生粋のニューヨーカーである彼は、自分たちの街を襲った大きな苦難に際し、番組内で「ボクサー」を披露した。ミュージシャンとして駆け出しの頃の、サイモン自身の不屈の闘志をうたいあげた曲「ボクサー」のメッセージは、困難に立ち向かうすべての人にとって普遍的なものになった。そして、「決して自伝は書かない」と公言していた彼だったが、昨年、ツアーからの引退宣言を機に、信頼する著者とともに評伝づくりに取り掛かり、自らの音楽キャリアだけでなく、その裏側のパーソナルな人生についても赤裸々に明かした。それがポール・サイモン本の決定版ともいえる『ポール・サイモン 音楽と人生を語る』だ。
 彼の心意気に敬意を表して、本稿では『ポール・サイモン 音楽と人生を語る』のプロローグを公開する。ぜひ「ボクサー」を聴きながら読んでみてほしい。そう、本書は、この伝説的なライブ場面から始まる。

プロローグ

 1975年にはじめて「サタデー・ナイト・ライブ(SNL)」に出演して以来、ポール・サイモンはマンハッタンのミッドタウンにあるNBCスタジオのステージまで、細い廊下を歩いていくのをずっと楽しみにしていた。時には単独で、時にはアート・ガーファンクル、あるいは高く蹴り上げた脚で客席を沸かせる南アフリカのヴォーカル・グループ、レディスミス・ブラック・マンバーゾとともに、彼はキャストやスタッフから寄せられる好意の数々──笑顔、励ましの言葉、さらには背中を叩かれることも──をありがたく受け止めていた。
 だが今回──2001年9月29日の夜──ばかりは勝手が違った。
 廊下に足を踏み入れたとたん、サイモンは頭こうべを垂れながら、今もなお18日前に起こった世界貿易センタービルへのテロ攻撃で命を落とした400人を超える同僚たちを悼んでいるニューヨーク・シティの消防士と
警官たちの列を目の当たりにした。そのせいでサイモンは、9/11の犠牲者──死傷者の数は約9000人におよんだ──を追悼する今回の番組が時期尚早だったのではないかと不安になった。「SNL」に出演するコメディアンの多くも、同じように自問していた。はたしてみんな、ジョークを受け入れる心の準備はできているのだろうか?
 サイモンはすでに全世界で中継され、犠牲者の家族のために2億ドル以上の募金を集めた9月21日のテレソンに参加し、ポール・マッカートニーやU2をふくむ20組強のアーティストたちと共演していた。サイモンは彼のもっとも有名な作品、ゴスペル色の濃い〈明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)〉をうたい、それはこのライヴの感動的なハイライトのひとつとなる。しかしながらあの夜は、事情がいささか異なっていた。テレソンは世界レヴェルでの団結と支援の表明だった。アーティストは観客のいないスタジオでロウソクの光に照らされて演奏し、そのイヴェントにおごそかだが心を鼓舞する親密さをもたらしていた。
 今回の「SNL」に際し、ひとつの文化を生み出したこのTVシリーズの生みの親、ローン・マイケルズはニューヨーク・シティの住人たちにはっきり照準を合わせたいと考えた──冒頭に登場するのは市長のルディ・ジュリアーニと約30人の消防署、警察署職員たち。グラウンド・ゼロでの仕事を終えたばかりで、制服にはまだ現場の土埃がついたままだ。予定では市長がニューヨークの輝かしさと不屈さについて短く語り、そのあとでサイモンがうたうことになっていた。それはこの街の士気を高めるという、マイケルズの目標に欠かせないステップだった。
 マイケルズはサイモン以上の適役はいないと信じていた──彼しかいない。サイモンはロックンロール名誉の殿堂(ホール・オブ・フェイム)とソングライターズ名誉の殿堂(ホール・オブ・フェイム)の両方に迎え入れられた(前者は2度)アメリカを代表するソングライターのひとりであり、グラミーの年間最優秀アルバム部門を3つの異なる年代に制したただひとりのアーティストだった。彼の楽曲はエルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラからバーブラ・ストライサンドやレイ・チャールズまで、宝箱のようなヴォーカリストたちにレコーディングされていた。


 サイモンはまた、この街の浮沈をみずからの活動に反映させてきた生粋のニューヨーカーでもあった。クイーンズ特別区出身の彼は、小学校時代からの友人、アート・ガーファンクルとともに全世界的なスーパースターの座につき、だがその人気がピークに達した1970年、独自の音楽的な夢を追求するために、このデュオから身を退く勇気を示して見せた。ソロ時代の最初の10年間は、より音楽的な幅が広がったおかげで、1960年代にも増して実りの多い時期となり、傑作《グレイスランド(Graceland)》を生み出した1980年代も、それに負けず劣らず充実していた。だが同時にサイモンは、敗北の痛みも感じていた。サイモン&ガーファンクルのパートナーシップを解消した彼を、ファンの多くは決して許そうとしなかった。彼は2
度の離婚を経験し、映画界(『ワン・トリック・ポニー(One-Trick Pony)』)、ミュージカル界(『ザ・ケープマン(The Capeman)』への進出は、いずれも失敗に終わっていた。
 マイケルズからすると、サイモンはもうひとつ、この特別な一夜と強いつながりを持っていた。9/11にこの街にいて、そこを支配した恐怖を知っていたことだ。その日の朝、彼はセントラルパークの西側ぞいを15分ほど歩いた場所にある学校まで、ふたりの子どもたち──8歳のエイドリアンと6歳のルル──を送っていった。快晴の1日で、空気はわずかに秋前の寒気の痕跡を留めていた。9時少しすぎにアパートにもどったとき、戸口で妻のエディ・ブリケルが彼に、アメリカン航空の飛行機が世界貿易センタービルの北棟に
衝突したというニュースを伝えた。
 TVの画面を見はじめたとき、サイモンはまず悲惨な事故が起きたと考え──結局は2機めの飛行機、今回はユナイテッド航空機が南棟に衝突する場面を、恐怖とともに目撃することになる。もはや、この街が攻撃下にあるのは明白だった。パニックになった彼は学校に駆けもどり、エイドリアンとルル、そして友人たちの子ども数人を自宅に連れ帰った。子どもたちを落ち着かせるために、ポールとエディはTVのスイッチを切り、地下鉄でほんの数駅しか離れていないダウンタウンで起きている惨事の詳細が聞こえないようにして遊ばせた。
 じきにジョージ・W・ブッシュ大統領が正式にこの攻撃を認め、市の職員は街に出入りする橋とトンネルを封鎖した。その数分後には飛行機がペンタゴンの西壁に突入し、さらにもう1機の飛行機がペンシルヴェニアの平原に墜落する。その日の終わりまでにニューヨークには異臭──通常の煙ではなく、衝突で生じたさまざまな化学薬品の臭いが漂いはじめた。「ぼくらはみんなとりこにされ、無力になった感じがした」とサイモンは語る。「助けたい気持ちはあった。でもなにができるんだろう?」。数日後、彼はふたつの番組からの演奏依頼という形でその答えを得た。
 だがたとえ「サタデー・ナイト・ライブ」のタイミングに懸念を抱いていても、サイモンがマイケルズの頼みを断ることはありえなかった。マイケルズは親友のひとりで、その判断力には暗黙の信頼を置いていたからだ。加えて「SNL」のセットにひんぱんに出入りしていたサイモンは、キャストの名誉メンバー的な存在だった。それでも手ごわい挑戦であることに変わりはなく、廊下に足を踏み入れた瞬間、彼は平静を保っておけるだろうかと不安になった。友人やミュージシャンの葬儀や追悼式で何度かうたった経験のあるサイモンは、哀しみに沈んだ顔を見る辛さをよく知っていた。


 かたわらの消防署や警察の職員と同様に厳粛な表情を浮かべたジュリアーニが、この街に関する決意表明で番組の幕を開けた。「わたしたちの心は傷ついていますが、鼓動は止めていませんし、むしろ今まで以上に強く鼓動しています。ニューヨーカーの心はひとつです。テロリズムには屈しません。恐怖に駆られて決断を下すような真似はしません。わたしたちは自由のなかで生きていくことを選びます」
 彼が話を終えると同時に、TV視聴者の耳には静かなギターの音が聞こえはじめ、カメラは市長からサイモンへとゆっくりパンした。黒衣に身を包み、FDNY(ニューヨーク消防署)のキャップをかぶったサイモンは、巨大なアメリカ国旗の前で、マイケルズが彼のために選んだ曲をうたいはじめた。それは〈明日に架ける橋〉ではなく〈ボクサー(The Boxer)〉──ニューヨークの街に触れたくだりもある、サイモン自身の苦闘と不屈さをうたった曲だった。
 30年以上も前、サイモンがまだ27歳のころレコーディングされていたにもかかわらず、〈ボクサー〉は並はずれた技巧と深みを感じさせる曲で、一人称の歌詞が最後のヴァースでは三人称に劇的に切り替わり、だれもが共感せずにはいられない普遍性をつけ加えていた。その最後のヴァースは──

空き地に立つのはボクサー
闘いを生業とする男
彼はひとつとして忘れていません
自分を打ちのめし、切り裂き
ついには怒りと恥辱のなかで
こう叫ばせたグローヴのことを
「辞めます、ぼくはもう辞めます」
でも闘士はまだそこにいるのです
ライ・ラ・ライ……

In the clearing stands a boxer
And a fighter by his trade
And he carries the reminders
Of every glove that laid him down
And cut him till he cried out
In his anger and his shame
“I am leaving, I am leaving”
But the fighter still remains
Lie-la-lie . . .

 最初の2コーラスのあいだ、観客はずっと沈黙を守り、おかげでその時間がより哀切に感じられた。しかしサイモンが最後のヴァースをうたい終えると、ささやき声で彼と唱和する「ライ・ラ・ライ」のコーラスが客席からちらほら聞こえはじめ、スタジオの感動はいや増した。15 年後、マイケルズはサイモンのパフォーマンスを、「サタデー・ナイト・ライブ」史上最高に心を打たれた音楽的瞬間と呼んだ。
「わたしはポールと番組とこの街のことを、とても誇らしく思った」と彼は語り、その晩は彼自身も涙をこぼしたことを認めた。「彼があの曲で示した強さ──消防士や警官たちがどんな目に遭わされたか、そしてこの街がどんな目に遭わされたかを知った上で、彼らの前に立っていた──には、とにかく驚嘆させられた。これだけの時をへた今も、あんな真似のできる男は彼しかいなかったと思う。彼以上に番組とニューヨークを象徴する存在はいない」


 それはサイモンにとっても決定的な瞬間となる。なぜならソングライターとしての彼が持つ、典型的な資質のひとつにスポットが当てられていたからだ。〈ボクサー〉を筆頭に彼の曲の多くは、内在する闇を脱け出し、慰め、楽観、さらには信頼をも表現する。反逆をむねとするロックンロールの世界にあって、彼の音楽──〈アメリカ(America)〉や〈ミセス・ロビンソン(Mrs. Robinson)〉から〈アメリカの歌(American Tune)〉や〈ボーイ・イン・ザ・バブル(The Boy In the Bubble)〉にいたるまで──は共感をベースにしていた。
 私生活で憂鬱症や自己不信に囚われることがあっても、彼は自分の曲から絶望や敵意を排除してきた。「人生のどんなことでもいいけれど、もし自分の言いたいことが、それについてどれだけ失望しているかということだけだとしたら、ぼくはやりがいが見いだせない」とサイモンは語る。「もうその手の曲は山ほどあるし、哲学的に考えても、それが自分の仕事だとはまったく思えない。でも別に嘘をついてその逆をいっているわけじゃないんだ。愛はすばらしいし、《ユー・アー・ザ・ワン(You’re the One)》のアルバムでも言っているように、とにかくほしくてたまらなくなって、だからとうとう手に入れると思わず大声で笑いだしてしまう。いってみれば、薬みたいなものだ」
 現にサイモンの最初の傑作が生まれたのは、彼自身もなぐさめを必要としていた、トラウマの時期のことだった。音楽業界の最下層で、もっぱらラジオでかかっていた曲をコピーしながら、ティーン向けのポップ・ヒットを書こうと何年も苦労してきたあげく、1963年の秋、彼はすっかり行きづまりを感じていた。ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジではじまったフォーク・ムーヴメントに刺激を受けて、彼は曲のなかで言いたいことがほんとうにあるのかどうかを突き止めるために、内面に手を伸ばそうと心を決めた。かりにソングライターとして失敗するとしても、誇り高い失敗者になろう、と彼は自分に言い聞かせた。
 しばしばそうしていたように、サイモンは自分のアコースティック・ギターを実家のバスルームに持ちこんだ。そこに入るとタイルのおかげで、より魅力的な響きが得られるからだ。そして灯りを消してリラック
スし、音楽とひとつになろうとした。「13歳か14歳のころからずっと、曲づくりは最高に安心できる、居心地のいい場所だった」とサイモン。「曲づくりは決して不意に、ぼくの背中を刺してくるような真似はしない。ほんとうに気持ちが沈んだとき、ぼくは座ってEのコードを30分弾きつづけた。といっても曲を書いていたわけじゃない。ぼくが愛するこの楽器で、ただ自分をなぐさめていただけだ」
 11月の彼は来る夜も来る夜も、ギターを抱えてバスルームにこもり、自分の音楽と未来にひとりで対峙した。そんな時、彼の世界はジョン・F・ケネディの暗殺で一変する。22歳になったばかりのサイモンがそのニュースを知ったのは、マンハッタンにある音楽出版社での仕事中に昼休みを取っていたときだった。母親のベルによると、意気消沈した彼は、何時間も自分の寝室から出てこなかった。
 その悲劇からさほど間を置かず、バスルームにもどったサイモンは、いつもの習慣に従って灯りを消し、ギターをそっとつま弾きはじめた。そのうちに彼は心の琴線に触れる、温かな音に行き当たり、それを何度も何度もくり返し弾いた。ゆっくりと彼は、何か月も前から心に引っかかっていた思いを形にしはじめた。それはミュージシャンから宗教的なリーダーまで、不正と過度の物質主義に異を唱える人々の言葉にいっかな関心を払おうとしない世間に対する違和感だった。
 ひとりで座っているうちに、言葉が彼の口をついて出てきた──「やあ暗闇、わが旧友よ(Hello darkness,my old friend)」 それからの50年あまり、サイモンは傍目に見るといともたやすげに、なんとも野心的で技巧的な曲を書きつづけてきた。宝物のようなアルバムをリリースしてツアーをすると、それからの3、4年は表舞台にほとんど顔を出さず、曲づくりと新たなアルバムのレコーディングに専念する。その間に彼がインタヴューで個人的な事情を打ち明けたり、世間的には音楽に負けず劣らずアーティストのイメージを左右する、タブロイド紙的なエピソードに時間を取られたりすることはほぼなかったと言っていい。とはいえさすがのサイモンも、ポップの世界で生きていく上での苦闘や難題に取り組まないわけにはいかなかった。


 彼は生まれながらのソングライターではない。一連のはっきり特定が可能な出来事を通じて、ついにアーティストとして開花した彼が〈サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)〉を書き上げたのは、凡庸な曲を6年間、次から次へと書きつづけた末のことだった。こうした進化のおかけで、サイモンはポップ・ミュージックにおける卓越性と息の長さに関する理想的な事ケ ーススタデイ例研究となっている──真のアーティスト性はいかにして獲得されるのか、そして獲得後はいかにして、名声、富、ドラッグ、結婚、エゴ、拒絶、世間の好みの変化、失敗に対する恐怖といった邪魔物から守っていかなければならないのか。サイモンはそのすべてと無縁ではいられなかった。

以下は本書の目次および紙面です。

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ポール・サイモン(帯)

ポール・サイモン 音楽と人生を語る
ロバート・ヒルバーン 著
奥田祐士 訳

ロバート・ヒルバーン
ロスアンゼルス・タイムズの音楽部門編集長として30年以上のキャリアを誇るジャーナリスト。これまでの著作『JOHNNY CASH: THE LIFE』(New York Times’ Michiko Kakutani’s 10 Favorite Books of 2013)はいずれも高い評価を得ている。
奥田祐士(おくだ・ゆうじ)
1958 年、広島生まれ。東京外国語大学英米語学科卒業。雑誌編集をへて翻訳業。主な訳書に『ポール・マッカートニー 告白』『ロビー・ロバートソン自伝』『スティーリー・ダン・ストーリー』『ヨット・ロック AOR、西海岸サウンド黄金時代を支えたミュージシャンたち』 などがある。




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