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テヘランの思い出

(2550字)
若い頃に体験した、テヘランの思い出を残しておきたい。
それまではモンゴルを担当していて、中国での事件にもめげずに再チャレンジしてモンゴル草原を1回の出張で2,000kmほどジープ数台で駆け巡っていたが、モンゴル駐在を前に、突然研修所行きを命じられ、長い語学や生活の研修を経て、あれよあれよのうちに、1990年代半ばにテヘランに家族で赴任した。

初めての海外生活で有り、家族ともども不安がMAXだった。そんな中、ほっとしたことは、赴任した頃は春真っ盛りで、テヘラン北部のタジリッシュバザールに近い、標高1600mの山の上に家を確保して、近所を散歩すると道端に1本だけ桜が咲いている!と喜んで近づいて日本のように子供達と花見を楽しんだことだ。
あとで同僚に聞くと、アーモンドの花だよと言われてちょっとガッカリした記憶がある。まぁ、どうりで花いろが濃いなぁと、改めて花を見つめ直す。春にホームシックに罹りそうになった時にはこのアーモンドの花を見るとさらに重症になるそうだ。

山の神は初めてのイスラム圏の生活で、ヘジャブとチャドル(コートを着ていた)になれず暑いので愚痴ばかり。ごめんねと言う間もなく、他の婦人方と共にドバイへ旅立ち悪い遊びを覚えた。金細工や宝石ショップ巡りというやつだ(涙)

話しをもとに戻すと、日常生活は、毎日子供を車に乗せて、ドライバーと共に家を出て、世界でただ一つの「大使館附属日本人学校(小学校・中学校)」に寄ってから自分の仕事場に行く。
ガンドリーさんの運転する外交ナンバーのスクールバスの送迎路線から外れている山の上に住んだので仕方がない。その前の幼稚園に送り届けていた頃は、幼稚園で色白の息子がケニア大使の娘でコーヒー色の活発な女の子に抱きつかれてチューの挨拶をされたことがショックというか恐怖で(笑)、しばらく登園拒否が続き、車から降りないので職場に連れて来て秘書に可愛がって貰っていたことが懐かしい。それ以来、息子は海外嫌い、娘たちのように英国留学もせず、日本Loveで通している。息子には、仲良くしていたら今頃はケニアの大富豪になれたのにといつも言っている。

仕事柄、イラン国内各地を巡った。南部の土漠の道を通ると、見捨てられた集落に行き当たることがある。そこには、ひとけの無い空き家とコントラストが鮮やかなアーモンドの花が咲いていた。集落を流れるカナート(地下水脈)のおかげで、乾いた土地でも人や植物は生きていける。しかし、水が枯れると集落は打ち捨てられ、そのうちこのアーモンドの木も枯れていくのだろうと想像した。

古代ペルシャ人はカナートを発明し、地下水を涵養し、この枯れた大地に生命を吹き込んだ。先人たちの発明のおかげで、今でもイランは農業大国だ。このシステムは文明を支えるために輸出され、遠くエジプトのアレキサンドリア、イラクのエルビル、オマーンでも現存しているものを見ることが出来る。
ドバイで仕事をしていた時代にはイラクのエルビルに通ったが、古代ペルシャ時代の「王の道」の中継地として栄えた土地だ。この灌漑システムのお蔭だと思う。
(参考文献:「カナート イランの地下水路」岡崎正孝著)

普段の仕事は、テヘランの下町での交渉や日本からのミッションとの連絡調整業務だが、ミッションを迎え入れるのに空港でよくハプニングが起こる。直行やヨーロッパ経由の日本人の乗った飛行機の到着がだいたい夜中の1時ぐらいだったので、家を迎えの車で夜中に出て、空港の中で4時間ぐらい掛かるので朝方まで帰れない。税関当局者は英語を喋らないので、仕方なく下手なペルシャ語で延々と交渉し、あの手この手でミッションの大きな荷物をいくつも通関させるのが第一の仕事だ。そのまま朝は仕事に出るので、ミッションがくる日はとてもハードな仕事だった。

自分の担当のフィールドは主にカスピ海沿岸にあった。
テヘランからカスピ海に至る道は東西と真ん中の3つの道がある。急ぐときは真ん中の2500m程度の峠とトンネルを越える道があるが、冬は危なくて使えない。冬じゃなくても、急峻な瓦礫の山からの落石で、ほぼ皆フロントガラスにヒビがある車しか見られないという、命懸けの道だ。冬以外の出張のときは、ドライバーが遠回りを嫌がるので、仕方なくこの命懸けの道を通るしかない。キャビアは喰いたし命は欲しいし。いま生きていることに感謝したい(笑)
冬の出張は東の道を通る。これはダマバンド山(標高5,610m)という中東近辺で一番高い山の麓を通る道だ。
ある冬の日、カスピ海で仕事を終えて、泊まらずに(泊まるとベッドで南京虫に喰われるw)夕方にテヘランに帰ることにした。外は吹雪いており、峠の手前のトンネルでは大型トレーラーが滑ってトンネル入り口を塞いでいたが、それを避けてトンネルを過ぎると、壮大な真っ白い大平原が広がっていた。この道はアレキサンダー大王が通った道だという。この冬景色を大王の軍勢も見たのだろうと思うと、感無量だ。

もう一つのエピソードは、よくペルシャ時代の古代遺跡のある僻地を仕事で旅した時のことだ。イラン南部のザヘダーンというパキスタン国境の街に、その昔パキスタンで働いたことのある年配の高橋さん(親子ほどの歳の差があった)と飛行機で出向き、そこからザボールというアフガン国境の古代遺跡のある街へ行く途中の事件だ。ザヘダーンの鉄道駅で手配の車を待ち合わせする間、その無邪気な高橋さんはポケットからメジャーを出して、鉄道の軌道に降りて、突然その幅を測り出したのだ。パキスタンの軌道幅と同じかどうか(パキスタンから直通なのかどうか)がどうしても知りたかったらしく、さっと軌道に飛び降りて測り始めたので、自分は顔面蒼白で慌てた。
鉄道は重要インフラで、秘密が詰まった施設でもある。駅に監視塔が無いかどうかを素早く見回して、人が来る前に自分も軌道に降りて、高橋さんを引き戻した。冷や汗がどっと出た瞬間だった。因みに、軌道の幅はパキスタンと同じだったと記憶している。
海外での仕事や生活は、ハプニング続きであり、刺激の強い毎日だった。おかげで、ドバイで暮らした10年間のうち、ハプニングの多かったイランにはとうとう行けずじまいだった。(了)

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