話の意図を汲むことで生まれる面倒臭さ

先に言うと、この話は結論がなく不安定なまま終わる。
ただ悩みを悩みのまま抱え、『こうだったらいいのになぁ』という言葉で締めくくられる小学生日記だ。
ここまで読んだあなたが時間を無駄にしないよう祈る。

『自分なりには』と注釈をつける程度に、僕は時々言葉が他人に与える影響を考える。
その上で最近気づいたことがあるのでここに書き残そうと思う。
時代が変わるか自分の無駄なプライドが無くなり、いつか解決されることを望んでいる。

僕はひねくれた性格なので、
絵を書いている人がよくやる『#私の絵が好みな人はRT』みたいな行為はやりたくない。
その理由は誰かに媚びたくないから。
絵なんて自己満で、自分が良いと思うものを書けばいい。
だから他人にわざわざ働きかけてまで反応を得るのが『なんか違くない?』って思うからだ。

…と僕の話を聞いて、どう思うだろうか?
『#私の絵が好みな人はRT』とやったことがある人は、僕の言葉を聞いて僕を少し面倒な人だと思うだろうか。

原因としては、単純に僕の変な部分のプライドが高くて、自分が他人の考えによってネガティブな気分になりたくないだけなのだ。

ただ一部訂正したいのは、
僕は自分のことを言っただけで、他人をどうこう言ったわけではない。


けれど例えばこれを絵師や多数のツイッタラーのいる飲み会で発言した場合『特定の誰かを否定した』と思う人もいるだろう。
もちろん僕としては誰かを否定したくて言ったわけでもないけれど。

被害者意識が強い人は発言の意図を汲もうとするあまり、
自分のことにまず当てはめてしまう、ということなのだろうか?

この話を一旦おいて、別の話をする。

世の中には、
『たけのこの里めっちゃ美味い!好き!自分の中で最高のお菓子だね!』
と言うと、
『じゃあきのこの山は好きじゃないってことですか?』
とか言う人がいる。

今の例えからイメージしにくかったら申し訳ないけど、
誰かが『A』というと、
『Bをディスってるんですか?』
と言う人(思う人)がいる、ということと同じと考えて欲しい。

しかしそれは
『考えすぎだ』
『思考が極端』
『被害妄想が激しい』

などと、僕の目につく範囲では言われている気がする。

話を戻す。

『僕は『#私の絵が好みな人はRT』というハッシュタグを使わないな、媚びてるみたいで個人的に嫌いだし』
と言う人がいたら、そのハッシュタグを使ってる人やハッシュタグに賛同する人の中にはイラッとする人がいるだろう。
そして『僕』に文句を言ったり、縁を切ろうとする人もいるかもしれない。

わかる。
それはわかる。
自分もきっとそう。

でも、物事の本質は一緒な気がしてならない。

『#私の絵が好みな人はRT』を批判する人に不快感を覚えることは理解出来る。

一方で

たけのこの里を褒めたらきのこの山をディスってるという文句が出ることは『被害妄想が激しい』から問題があるらしい。

どちらも意図を汲み取っているだけなのに何故だろう?
違いはそこまで無いんじゃないだろうか。

自分の好きなものを『嫌い』と言われた時、
怒りの感情が芽生えて、発言者に『嫌い』を返す。

発言の矛先が『人物』『行為』『自分が愛着などの感情を持つ対象』によっても印象が変わるのだろうか?

ああ、とても面倒くさいな、
と思う。

単純に
『自分の考えは自分の考え』
『相手はそういう考え方をするんだね』
『みんな違ってみんないい』

という解釈で一括処理して効率化したい。

でも時と場合によって違うのだろう。

今の僕ではどう考えても埒が明かない。
とりあえずは一括処理出来たほうが無駄に振り回されずに済むと思い、

これからの『僕は』そちらの方向に進む。
いつか何かが変化するまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?