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「我慢しなくていい」なんて本気で言えるか?

私たちは日常的に、我慢は良くないことだ、理不尽なことは忌避すべきだ、納得いかないこと(やりたくないこと)はやらなくていい、と信じているように思う。そして、その裏返しとして、我慢から解放されるという意味での「自由」が大事なんだという価値を共有している。

例えば学生は、他者から何か行為を促されるとき、その理由や根拠をすごく知りたがるし、それが理不尽でないことをとても重視する。こちらが提案している教育プログラムについて、「なぜそれをしなければならないんですか」「どんな意味(効果、目的)があるんですか」的な質問が出るのは通常のことだ。もしこれを飛ばして進めようものなら、従順な彼らはいったん飲み込むものの、その後とてもノリが悪い。

確かに、我慢や束縛されないという「自由」は魅力的だ。やりたいことをやって、理不尽さから解放された人生や生活は、どんな人にも理想的に映るかもしれない。でも、この我慢しないこととしての自由の希求には、矛盾というか危険が潜んでいるように思う。

理解や納得すること、それによる自由を希求することが間違っていると言いたいわけではない。自分がするその行為について納得できるような理由を、他者から事前に得られることなんて本当にありうるのか、を問いたいのである。たとえ教員がそのプログラムを進めるための合理的な理由を掲げたとして、学生は本当にその理由で納得・理解できるのだろうか。いや、できないはずだ。結局、やるべきだからやっておこうと飲み込まざるを得ないのがオチなんじゃないだろうか。

私たちは、行為する前にそれについて理解・納得することはできないし、それをやりたいと思えるわけもない。食べたこともないものを食べたいと思うことは不可能なわけで、しかも自分がそれを食べたい理由を他者が分かることなんてありえない。他者から与えられるどんな理由も、結局納得はできないのである。だからこそ、やはり自分でまずやってみるしかない。

この意味で、行為する事前に納得・理解したいという、一見「自由」への希求にも見える取り組みは全く矛盾めいていて、それによって彼らは自らの判断で行為できない「不自由」への入り口に立ってしまっている(誰かから強制されるか、すり替えのご褒美がないと行為できない)。

このとき不自由に甘んじてしまう人の心理は、おそらく既存の自分(の考え)と継続性のない行為ができない、というものではないだろうか。今の自分が(理解できている)やりたいことを捨てられない、それを無視して理不尽な行為を自ら行えないのだ。つまり、「我慢」不足。

我慢にはある種の”諦め”の感覚がつきまとう。この諦めの悪さが結局その人の不自由さや理不尽さにつながっている(諦めが悪く、とりあえず行為できないことで結局、納得ができない状況に陥る→理不尽な状況から抜け出せないという不自由)という逆説こそが、現代の人たちがはまっている陥穽(落とし穴)のようにも思える。

この意味で、「分相応」とはよく言ったものだと思う。この言葉は、よく自分のレベルに不釣り合いなことをすべきでないというニュアンスから、贅沢や背伸びを諫める表現として使われる。この言葉を聞いた人の多くは、自由への希求を制約される言葉として嫌悪感を持っているんじゃないだろうか。分相応に暮らすこと、というのが、背伸びせず今の自分に満足して、妥協して生きてくべきだ・・・のように。

しかし、この言葉にはもっと深い意味があるように思う。今の自分ができないことを冷静に受け止めて、その中でも「我慢」して行為を続けていこうう。そうすれば、(実は)その先に新しい自分と、それが実現してくれる自由が見えてくる、のように。一見ネガティブな表現だけど、決して絶望しているわけではなく、むしろリアルに世界を生き抜いていくためのコツみたいなことがこの言葉には含まれているんじゃないだろうか。

諦めて、我慢しよう。そうやってめげずに行為し続けることが、そこから這い上がり、自由を手にするための優れた方法だから。


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