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シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版を鑑賞。
やっと庵野監督自身でエヴァを終わらせ、エヴァファンとしても見納めた、という感じでした。

以下、ネタバレ感想なのでお気をつけください。












旧劇ではオタク=庵野監督自身が勝手にアニメにハマることへの肯定感を気持ち悪いと表現し、アニメなんか見てないで現実に帰れ、というメッセージだったのに対し、シン・エヴァでは、エヴァを庵野監督自身がアップデートすることで、自身も救われオタクも救うという内容だった。
これまでのエヴァに縛られていた世界から、エヴァがない世界に書き換え、エヴァを卒業し、新しい人生を進むもよし、これまでのエヴァが無くなったわけではないのでエヴァを好きでい続けてもよし、アニメ=虚構を卒業し現実に帰るもよし、虚構と戯れることも否定はしない、そんなメッセージだった。

冒頭の、シンジが機能不全に陥り、農業生活を通して徐々に日常を取り戻していくシーンは、実際に庵野監督自身がエヴァQ以降陥った精神状態を表現しているのだろうし、農業のシーンは、震災以降第一次産業的な生産行為の重要性が見直され、一方アニメーターやクリエイター的なエンタメ産業は人の命を救ったりは出来ないという庵野自身の絶望感を表現しているのだと思う。
コロナ禍でも、医療従事者の方々が患者を救うのに対し、クリエイターが現実に対し何ができるのか、と。
そんな無力感と、自分がエヴァをヒットさせて世の中に影響を与えたこと(=ニアサーを引き起こして世界に影響を与えたこと)の罪悪感に苛まれていたときに、同級生の相田から、ニアサーも悪いことばかりではなかったこと(=エヴァファンからの激昂)や、クローンでしかないレイに対し名前を付けたりコミュニケーションを取ること(=旧エヴァを2次創作すること)で活気を取り戻す。

元々ウルトラマンや宇宙戦艦ヤマトなど、過去の創作物を2次創作的に詰め込むことでオリジナリテル作品(=エヴァ)を生み出してきた庵野監督が、エヴァ自身を自分で2次創作するぜ!という意気込みが後半から表現されていく。

ウルトラマンはシン・ウルトラマンで好きに扱うので、今回は大和作戦、つまりヤマトをベースに好き勝手にエヴァを2次創作していく。

ガジェット・メカへのフェチ、人類補完計画で出てくるような女性の裸、ゲンドウの告白にあったような、自分が好きなこと(知識=教養主義、ピアノ=クリエイティブ)。
自分の性癖がかなりわかりやすい形で表出する。

ただ、今回は自分勝手な補完ではなく、相互補完=コミュニケーションを大事にする、ということで、シンジとゲンドウとの対話であったり、各キャラクターとの対話を通じて、シンジ以外のキャラクターを救済(成仏)させていく。
そして、これまでシンジを救ってくれたマリと一緒に、エヴァのいない現実を歩んで終わっていく。
これまでのレイ(母親)でもアスカ(他者としての女性)でもカヲル(親友)でもなく、マリ(パートナー)を選ぶ。

どうやらマリはエンドクレジットに出ていた実の奥さんの安野モヨコ説が有力らしい。
また、ゲンドウも列車を降り、シンジとマリも駅のホームで電車に乗らずにホームから去り階段を登っていくのは、敷かれたレールの上を進んでいくという決められた運命からの脱線を表現しているらしい。
1人ではわからない描写もネットの考察で集合知的に補完しあえるのも個人的には勝手に人類補完計画だと思っている。笑

というわけで、庵野監督がたくさんのオタクに影響を与えたエヴァは、庵野監督自身によってアップデートされ、オタクに現実を生きるもよし、自分なりのエヴァと戯れるもよし、自身はパートナーを得て次の人生を進んでいく、という結論を持って幕を閉じた。

正直、想定していた結論から大きく想像を超えるものではなかったが、これでエヴァが終わったんだ、ということが感慨深い。
エヴァはオタクのためなのか、オタクを突き放すものなのか、それは、オタク自身に委ねられたものだと思った。

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