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佐藤天彦九段は将棋についてどのように考え、捉えているのか?

哲学や音楽など縦横無尽に領域を横断して思考が駆け巡る天才の頭の中、そして将棋の魅力とは?

もし私の美意識を反映した一手が「美しい」とか「面白かった」とファンの皆さんに伝わっているのであれば、表現者としてそれ以上の喜びはありません。

佐藤天彦九段

※2022年末に佐藤天彦九段にインタビューした内容をまとめた原稿です


エピローグ

 佐藤天彦九段を見かけたのは、ある年末近くの夜のことだった。

 いつものように、新宿三丁目から西武新宿駅へと師走の人びとで賑わう帰り道をそそくさと歩いていた。その途中、靖国通りから一本奥まった道に面した、ガラス張りの洒落たイタリアンレストランに優雅な所作でティーカップを口に運ぶ佐藤天彦九段を見かけた。雑誌で見た通りの黒のスーツを纏い、テレビで見た通りのモッズヘアの実に洒落た将棋棋士が目に留まった。一瞥して通り過ぎた私は、しかし思い立ったが吉日とばかり踵を返した。丁度その折、大川慎太郎さんの『証言 羽生世代』という新書を読んでいたからだ。天彦九段も取材に応じている本である。

「これはなにか、天の采配なのではないか」

と私は思い込んだのだった。その洒落たレストランに入り、天彦九段の横の席に座った。道に面したガラス張りの一人席には誰も客がいなかったからだ。

「あの、隣の席、いいですか?」

と声をかけると、天彦九段は律儀に席の合間に置いていたコートを私とは反対側へ移した。

「あの、佐藤天彦さんですよね。実はいまこういう本を読んでいましてね」

と思い切って、しかし予定していた通り私は天彦九段に話しかけてみた。天彦九段は大きく驚くような素振りも見せずに突然のインタビュアーである私への応接をし始めた。

「ああ、その本ですね。私も登場していましたかね」

 私は、生粋の将棋ファンということではなかった。私はむしろいわゆる「読む将」「観る将」として書籍・雑誌やテレビ、Webといったメディアを通じて、将棋に触れていた。そして、現代のAI全盛ともいうべき時代状況の中で、人間と技術と社会の関係に関心を寄せていた。そうしたことを学ぶために、四十を過ぎてからわざわざ大学院にまで行ってメディア論とか情報社会論といった学問の世界へ入門した経験があった。ただ就業しながら博士課程に入ったのち、家庭との両立を果たすことに戸惑い、中退していた。つまり、現代のAI時代をどのように見立てるのか、という難題は未完のプロジェクトとなっていたのだ。

 佐藤天彦九段は、まるで私の未完のプロジェクトを知っているかのように、会話の途中でヴァルター・ベンヤミンの論考から自身の将棋にまつわる思考や思弁を広げていった。まるで突然の対局者の志向や考えを読み切ったように、穏やかな口調ですっと、そして力強くそうした一手を差し出してきたのだ。私は天彦九段の丁寧で緻密、さらにはその思考の強度のようなものに舌を巻いて、会話の途中で何度も「凄まじいですね…」と唸っていた。圧巻そのものだった。多分少なくとも三十回くらいは同じ台詞をご本人を前にして伝えたと思う。実力不明者からの初手合いを受け入れる人間的な懐の深さにも脱帽していた。

 私は明らかに、通りすがりの質問者とたまたま居合わせた将棋の天才との会話を楽しみ始めていた。佐藤天彦という将棋棋士は、「才華爛発」な研究者のようだった。唐突に申し込んだ対局はやがてスリリングな知的興奮に満ちて、私のアルコールは進み、天彦九段という天才バッター相手に草野球のピッチャーが渾身のストレートを投げるがごとく、熱がこもっていった。これはその記録である。

インタビュー

将棋における「人間らしさ」とAI

インタビュアー(川瀬):
 大川慎太郎さんの『証言 羽生世代』であるとか、佐藤天彦先生の『理想を現実にする力』(朝日新聞出版)はもちろんのこと、加藤一二三先生の『羽生善治論―『天才』とは何か」(角川書店)、谷川浩司先生の『藤井聡太論 将棋の未来』(講談社)、羽生善治先生と柳瀬尚紀さんの共著『勝ち続ける力』(新潮社)などの本を読むと、トップ棋士の凄みというものが伝わって来ると同時に、AI時代のなかで将棋棋士の個性であるとか「人間らしさ」や「人間同士ならではの将棋」とは一体なんなのかといったようなものが、いま大きなテーマとして浮かび上がってきているように感じます。

天彦九段:
 
僕自身はもともと性格上、その場の力勝負というか、「人間らしさ」といったところに重点を置くような性格であり棋風なので、個性を意識した将棋の作りになるんですよね。もちろんAIを使った研究もかなりしているのですが、最終的には自分の力が出るような形にしたい、そういう方向に向かっていくタイプの人間です。

 ただし一方で、最近では序盤研究をメインにしてそこで少しでも有利を作って押し切ってしまおうという将棋界の潮流もあるわけです。

 個人の哲学のようなところから言えば、「人間らしさ」にこだわった将棋をもっと打ち出していきたいし、そういう将棋を皆さんに楽しんでもらいたいとは思っています。とはいえ、現在のトップ棋士というのは序盤研究をさらに突き詰めています。

川瀬:
 大川さんの本の中でも複数のトップ棋士が、序盤研究の進展を共通して指摘しています。

天彦九段:
 羽生世代の棋士が序盤から一手一手を考えて将棋を築き上げていったということと、現在のAIを研究に活かした将棋が指されているということについては、思考のリソースをどこに傾けているのかに注目する必要があります。羽生世代の棋士たちは、ほぼ自力で序盤から考えていました。これに対して現在の棋士が序盤の一手一手に関して羽生世代ほどの思考のリソースを使っているかといえば、確かにそれはありません。しかし、現在はAIが示してくる手をどう解釈するのか、そしてどう解釈すれば自分に合うのか、そうしたところに思考のリソースを注いでいるのです。つまり、現在はAIに依存して「考えなくなった」のではなく、思考のリソースを注ぐ場所が変わった、移動したということなのです。そして、その移動というものをどう捉えればいいのかについては、すごく難しいところがあります。

 昔は、情報を入手する方法がアナログしか無かったので、ある意味で人それぞれ違う情報を参考にしながら考えていたという側面があって、考えやすかったとも言えます。どういうことかと言えば、今との比較でいえば、将棋ソフトがあるわけです。みな同じものを使うことができます。ある課題局面をソフトに入れれば、ほとんど似たような解をはじき出してきます。ただし、それを粛々と真似しているだけでは他の棋士とは差がつかないし、勝負で一歩前に出ることはできません。では、どうするか。十分に研究してきている相手を出し抜くにはどうすればいいのか、出し抜かないのであれば課題局面を徹底的に事前研究し、他の棋士がそこまで研究を掘り進められないような先の先まで到達させることで、他の棋士に対する優位性を確保するということになります。現在はそうした研究に思考のリソースが注がれているわけです。

 それが正しく説明されないと、まるで「人間の考える量が減り、将棋自体の魅力の厚みが減った」かのように捉えられがちです。思考の総量自体は決して減っているわけではありません。むしろ増えているくらいだと思います。確かに「ゼロから考えている」感じは減っているように見えるかもしれません。しかし、どこに棋士たちが思考のリソースを割いているのか、そしてそこに個性の色合いの違いが出ている点に注目して欲しいと思います。

川瀬:
 トップ棋士の個性というのは今も昔もあるのだと思いますが、いまのAI時代におけるその特徴というのはどういうものなのですか?

天彦九段:
 
具体的には、棋士によって作戦の捉え方が異なります。例えば、渡辺さんは「相手の意表をつけるのであれば、評価値がマイナス百、二百であってもいい」という考え方から作戦の選択をしたこともありました。一方で、他の棋士の中には「評価値がマイナス五十でも減るのであれば、その作戦は使いたくない」という棋士もいます。そこに棋士の個性の色合いが出ます。しかも現在は様々な作戦が登場し、多岐にわたって選択の幅が広がっています。

 例えるならば、いつも甘めのカフェラテ(やキャラメルマキアート)を飲んでいる人が初めてのBARに行った時、マティーニやウイスキーではなく、やはりちょっとミルキーだったり、まろやかで甘い飲み物を頼むと思います。これは私の話なのですが(笑)このように一人の人間が、あるお店でも、あるシチュエーションでもいいのですが、ある場面に遭遇した時の《選択》というのは、てんでバラバラなのではなく、性格や個性から一貫性や関連性のようなものがあるでしょう。それは人それぞれ、ネットワーク状に形づくられていると思います。

 私たち棋士も、AIがある同じ情報をはじき出していく中でも、棋士それぞれの好みや個性から、場面や局面においてどういう研究をしたほうがよいのかという優先順位をつけています。これは、一つ一つの場面や局面という意味では「ミクロ」と言えますが、その棋士の将棋全体、つまり「マクロ」で見れば好みや個性が多岐に渡るネットワーク状の一貫性や関連性を形づくり、最終的には棋士ごとにかなり異なる独自性を生み出しています。

川瀬:
 
なかなか抽象度の高い議論で驚いています(笑)トップ棋士というのはそんな難しいことをいつも考えているのですか(笑)

天彦九段:
 
いえいえ、さすがにいつもそういうことを考えているわけではないですよ(笑)でも、私は将棋の盤面のみならず、将棋を分野横断的に考えることは好きですね。

 そういう意味でも、そうした思考の過程と選択にこそ、現代における将棋棋士の個性が発揮されていると捉えたほうが望ましいと私は考えています。そこを正しく理解しないと、まるで「現代の棋士には個性がない」と誤解することになってしまいます。例えば角換わりの将棋の定跡というのは現在、五十手目、六十手目まで整備されています。ということは、盤面の駒の進行自体は、誰が指しても同じものになります。盤面だけ見ればまるで個性がないように映ります。しかし、その棋士の将棋全体を連続的に見てみれば、この場面ではAという作戦、他方であの場面ではBという作戦を選択するといった枝分かれで棋士は将棋を見ています。その棋士が将棋をどう捉えているのを一局だけでは判断できなくなっているというのが現代の将棋の特徴だと思っています。

川瀬:
 なるほど、とてもわかりやすく説明いただいて助かりました(笑)現代将棋は、一局だけではその棋士の個性が見えにくくなっているというのは初めて知った視点でとても面白く感じました。

将棋をめぐる「一回性」と「連続性」とは?新しい将棋の楽しみ方

天彦九段:
 
最近、ヴァルター・ベンヤミン⁽¹⁾という哲学者の著作を読みました。『複製技術時代の芸術作品』という有名な論考です。私は哲学を専門としているわけではないですが、機械的な技術の発展によって、それまでの芸術作品に帯びていた「いま‐ここにしかない」という一回性は失われ、「礼拝的価値」から「展示的価値」へと美的基準が時間的にも質的にも移行していくという議論でした。人びとが複製技術に対して「気の散った」状態(「気散じ」)で「触覚的」に受容するというベンヤミンの考察を私の問題意識に引きつければ、先ほど述べた将棋棋士の性格や個性から形づくられる一貫性、関連性、連続性、そして触覚的に《なんとなく感じる》という受容の仕方が大事になってくるということに置き換えられるのではないかと思っています。

川瀬:
 あの、天彦先生、ベンヤミンですか!将棋棋士で哲学の議論に通じられているのは、糸谷哲郎八段を除いていま私の目の前にいる天彦先生くらいではないでしょうか(笑)メディア論をやるとベンヤミンの『複製技術―』は必読の書で多くの論考に登場しますが、正直言って将棋棋士の先生からベンヤミンのお話しが出てきて、驚きを通り越して、その思考の強度の「凄まじさ」に顎が外れそうです(笑)とりあえず気を落ち着けるためにも、もう一杯お酒を頼みます。

天彦九段:
 
大丈夫ですか(笑)振り飛車とか横歩取りとか、「いま‐ここ」のその時々において、さまざまな棋士が多様な選択をしやすい将棋に魅力があるというのは今でも変わらずそうだと思います。これは私もとてもよくわかります。そうした「一回性」の将棋に対して、今後、角換わりのように五十手目、六十手目まで定跡が整備されていて誰もが同じような将棋を指していくなかでも、将棋棋士の個性は存在している。では、そうした将棋をどのように見立てればいいのか。私は、ベンヤミンがいうところの「触覚的」に、つまり《なんとなく》その棋士の将棋をたくさん観る、連続的に半年、一年といったスパンで観るという視点が必要なのではないかと考えています。どういうことかといえば、プロ棋士というのは、対局を重ねていくなかで、個々の対局同士をつないで捉えていきます。プロ棋士はあたかも各対局に連続性があるように感じているわけです。そうした点からも、すごく真剣に将棋を観るという必要はなく、「この棋士は同じ角換わりで定跡を進めていても、《なんとなく》この一局では攻めのタイミングが遅いよね」「あの棋士はあまり攻めずに《なんとなく》受けを重視しているよね」といったように、将棋を連続的に鑑賞することで、一見すれば似通った盤面(図像、絵柄)からその棋士ならではの個性を感じ取ることができるので、より一層面白さが伝わると思います。

 ベンヤミンが議論したような複製可能なメディアである映画や写真にも芸術性が宿っていると現代の我々は認識しているわけですが、「一回性」のある芸術、美術、そして将棋にこそ「真正さ」があるという先入観があると、角換わりのような研究将棋の価値を評価できなくなってしまいます。

 それと同じことで、芸術や美術、将棋も「一回性」の視点で見るのか、「連続性」の視点で見るのかで、評価できるか否かが分かれてしまいます。現代はそうした「一回性」と定跡研究の進んだ複製可能で「連続性」で観るべき将棋が併存している、いわば過渡期にあります。そして、定跡研究の進んだ複製可能で「連続性」で観るべき将棋は現在、まだあまり評価されていないように感じます。

 私自身はどちらかといえば「一回性」を重視する棋士ではあるのですが、将棋界全体を俯瞰すれば、いま「連続性」で評価すべき将棋は増えてきています。どちらの将棋も評価したうえで、棋士はその個性から選択を行い、ファンの皆さんは「私はこちらの将棋が好き、どちらも好き」といったチョイスをするというのがよいのではないかと思っています。

川瀬:
 現代将棋の課題について「一回性」と「連続性」という視点から分析されるパースペクティブはひじょうに斬新です。そうした視点で将棋を分析するというのは読んだことも聞いたこともありません。

天彦九段: 
 いまは「一回性」と「連続性」との間にギャップが生じています。「AIを参考にした将棋は、なにかつまらない」といったような気がするのは、そのギャップに起因している。振り飛車や「いま‐ここ」のその場で現れた局面に対応していく将棋のほうが楽しいような気もして、それは一つの価値観としてあっていいわけですが、ベンヤミンの言葉を借りれば「気散じ」つまり《なんとなく》、そして連続的にその棋士の将棋を見て「あれ、なんとなく戦型の選択の仕方がちょっと他の棋士と違うな」「ちょっとずつ攻めの形になっていくな、受けの形になっていくな」というような《なんとなく》観ていても充分、将棋の面白さを感じていくことができるような時代になったのではないでしょうか。

 眼の前の美術作品に対峙してゆっくりと深く没入していくような楽しみ方ではない、新しい将棋の楽しみ方が登場しているといえます。

 AIによる評価値や候補手が表示されれば棋士もファンの皆さんも必ずその影響を受けます。それによって自身で「この局面をどう考えたらよいのか」ということでは少し思考を減退させられていますが、ただしその代わりに《なんとなく》たくさん将棋を観て楽しむことができるという情報化時代になったわけです。

 ベンヤミンの議論をユニークに感じたのは、こうしたことが百年前にすでに語られていたという点です。将棋界は、これまでに経験したことのないAI時代を迎えました。将棋の価値というものはすでにあります。いまの将棋界の課題は、《なんとなく》連続的にたくさん観てもらい楽しんでもらうための方法や、いわゆる「魅せ方」なのだろうと思います。

川瀬:
 私は、現代のAI時代における人間と技術と社会の関係みたいなことに関心がありましたので、そうした相関関係に関するメディアや将棋を含めた考察としてきわめて興味深いです。また、天彦先生の議論はメディア論にも接続しているのではないかと感じました。

天彦九段:
 私自身は、AI時代の将棋についてこうした問題意識を持ち続けていましたので、ベンヤミンの議論を決してこじつけではなく、いまの将棋界に置き換え可能なところがあるのではないかと思いながら『複製技術時代の芸術作品』を読みました。

 現代将棋に生じている「一回性」と「連続性」の間にある溝を埋めることで、今まで築き上げてきた将棋の価値と人びとの新たな関係を構築していく可能性がひらかれていると思っています。

 現代将棋には、いわば「一回性」と「連続性」との間にギャップが生じていて、その溝を埋めることで、せっかくすでにある将棋の価値と人びとの新たな関係を築いていく可能性がひらかれていると思っています。

将棋の価値、前提、伝統とAI~現代の情報社会における将棋~

川瀬:
 天彦先生、わたしはいま知的興奮のなかにあって、だいぶ楽しんでしまっています(笑)アルコールの手助けもあって伝えるところなのですが(笑)、現代のメディア状況のなかで、AIの浸透をどのように見立てるのかというのはとても難しいと日々過ごしながら感じます。例えば将棋、そして人間の可能性を信じたい一方で、支配的な時代精神というか時代の気分のようなものがあるとも感じるわけです。

 そうした文脈から音楽と将棋に広げれば、私はムスティスラフ・ロストロポーヴィッチというクラシック界を代表したチェリスト、指揮者のファンです。ロストロポーヴィッチのレコードやCDを蒐集していた時期もあります。彼のチェロの何が好きかというと、「《神は死んだ》のちの近代の自我の目覚め」とでも呼べばいいような個性の強烈な表出を魅力に感じます。将棋におけるそうした個性の表出というのは、いまどう捉えたらいいと思いますか?

天彦九段:
 
将棋というのは、数学的に「(将棋の)解を証明せよ」といった命題が与えられているものではありません。万人がプレーすることができて、観る人も楽しめるゲームであるという点が重要です。もし仮に、人類に対して数学的に将棋の解を証明するよう命題が与えられているのであれば、AI将棋ソフトの評価値を参照しながらコンピューターを駆使して総動員体制で「ガリガリ」とやればいいのだろうと思いますが、それぞれの方法で「将棋の価値を求めていきましょう」という命題が与えられたゲームなのです。

 だからこそ、今この瞬間は評価値の下がる一手であっても、最後には自分で勝ちやすいという経験則に基づいて指す手であれば、その棋士の《存在証明》ともいえるものが刻印されたきわめて価値の高い一手になるはずなのです。にもかかわらず、その一手の数値的評価が低いとなると、その一手は評価できないという、いまの支配的な時代の気分があるように感じます。その一手には棋士の《実存》が滲み出ているのです。しかしそれがあっさりと「スルー」されてしまって、その一手の価値が等閑視されてしまう点こそが現代将棋における課題なのではないでしょうか。

 「価値があるにもかかわらず、それが伝わらない」というのは、将棋のメディア・インターフェースとして浸透しつつあるAIソフトの評価値が表示されている中で、《なんとなく》それを見ながら評価値の誘導の中で将棋を観るといういまやごく一般的な鑑賞スタイルと関係しています。そうしたインターフェースも当然ながら非常に重要で、それをどのように設計するのが良いのかというのは難しい議論ではありますが、「価値があるにもかかわらず、それが伝わらない」ことを解消していきたいという問題意識があります。「《実存》の不協和」とでもいうような評価値だけに拠る見方だけではなく、棋士の《存在証明》の現れである一手にもぜひ注目していただき、それを楽しんでいただければと思っています。

川瀬:
 将棋棋士の一手にかける重みといったものについて私を含めて一般の人びとが理解するのは難しい側面があるわけですが、その凄みの一端や片鱗に触れることができれば我々は嬉しく楽しいわけです。専門家と一般人の関係性というのは古くて新しいテーマです。

天彦九段:
 
「名人」の伝統と権威は将棋の発展の前提としてきわめて重要です。しかし一方で「名人」を権威として盲従するような、思考停止のようないわば形式主義はよくありません。そして、この四十、五十年は「名人が指したんだからすごい的な」権威を打ち破る歴史であったと思います。

 羽生世代は前時代のいわば旧習を打破していきました。将棋そのものに向き合ってとりわけ羽生さんは実力で突破していったのです。そして、AIの登場はそれをさらに解体してくれた。哲学の用語として正しいかはさておき、AIは将棋を「脱構築」しました。AIは人間が指す手の先入観といったようなことを問い直してくれました。「人間は普通、こういう手をやるよね」という前提、言い換えれば将棋のセオリーをいわば「空中の楼閣」の中で組み立て議論していたところに、「まずその基礎として土台となっているところはどうなの?」という根本的な問い返しとしてAIは指摘してくれたともいえます。ある意味で将棋そのものに対する提言を行ってくれたわけです。

 それに対して将棋の技術を持っている者として「AIが言っているから」というバイアスを取り除いて、「確かにAIが言ったこの部分に関しては将棋の真理探究のために修正する必要があるな」とAIを一つの思考として捉え、真摯に向き合っていけるのであれば、それは将棋が前進していくことにつながります。

川瀬:
 私は、こうして今までお話して来て、天彦先生の思考は前提の見直しや問い直しを恐れていないという点でとても哲学的あるいは社会学的だと感じます。そして、現在における将棋とAIの関係性について様々な議論があると思うのですが、トップ棋士である天彦先生が示すその関係性というのは、「人間らしさ」や人間に対する信頼に支えられたものと感じます。

天彦九段:
 
ただし、現実にいま起こっているあるいは起ころうとしている現象というのは、「名人、タイトルホルダー、プロ」を記号的な意味でただ崇める前時代的な旧習としての形式主義が、「AI」にすり替わっているだけのようにも見えます。AIが登場し、AIが示す手に対してきちんとした思考をもって対峙していけば、棋士は元々有している個性を失わずに将棋を指して、それを皆さんへお見せてしていくことができます。しかし、いま迎えているAI時代の中で、ただ単にAIに盲従してしまうと、「名人が指した手はすごいのだから、それを真似しさえすればよい」といったような前時代的な形式主義に逆戻りするだけのような気がします。権威の主体が、記号的に空虚な意味での「名人」から、空虚な意味での「AI」へすり替わるだけではそれこそ意味がありません。

 人間にとっての芸術やエンターテイメントというのは、人間と人間の相互性の中に存立していると思っています。いま、AI対AIの将棋というのもあって、それに面白さはあるのできちんと認めていていかなくてはいけません。しかし、AIというのはその性質上、一度優勢になったらほとんど間違えません。AI同士の対局ではあまり逆転が起こらないのです。将棋の内容そのものをフラットな視点で見れば、レベルは高い。しかし、逆転が起こらないので、ほんの少し形勢がよくなっただけで、勝敗が見えてしまうという特徴があります。人間同士であれば充分に逆転が起こりそうな局面でも、AI同士だと9割の確率でそのまま勝ってしまうといったことが指摘できます。

川瀬:
 
それは人間の不完全性だと思いますか?

天彦九段:
 
確かに人間の不完全性を示しているともいえるかもしれません。しかし、その不完全性というのは専門的な技術を持った人間の「至らなさ」ということでは決してありません。将棋のような閉じられた世界においてAIやコンピューターと人間との間に著しい計算能力の乖離があることを確かに示すものであるかもしれません。しかし、確かに計算能力という物差しからいえば、人間はAIやコンピューターに劣るかもしれませんが、訓練された人間の凄みというものがあると思うのです。

 「人間 vs. AI」といったような二項対立図式は、議論の滑り出しにはとても適していると思うのですが、思考を深めていく時にはいわゆる「複雑系」の議論に移行していくことがとても重要だと思っています。

 現代は、「アテンション・エコノミー」⁽²⁾の時代とも言われます。数値とか「いいね!」の数によって価値の天秤が動くような、あたかも世界がそうした原理のみで稼働しているかのようなモードやいまの潮流があるのかもしれません。たくさんの人びとが「いい」と思うことには一定の価値があるという側面は確かにあるとは思います。しかし、そちらの方向ばかりに行き過ぎてしまえば、「評価値ディストピア」の路線延伸や領域拡大になってしまうかもしれませんので(笑)、バランスが大切だろうとも思うのです。

 例えば藤井聡太さんしか知らない好手、百万人を集めて考えた手よりも彼の直観のほうが鋭く、優れているといったようなことが将棋にはあり得るのです。つまり、AIの計算能力による将棋の真理探究のための提言と棋力の鍛錬を経てきたトップ棋士の思考というのは、どちらも重要なのです。その双方ともに大事ではないかと感じています。

川瀬:
 いまデジタルネイティブ世代と呼ばれる若年層の人たちは、コンピューターやスマートフォン、ソフトウェアやAIとより一層、親和性が高いように思います。私の息子はまだ小学生ですが、今後父親の言うことよりAIの示すことを信用するようになるのではないかと冗談ではなく今から心配しています(笑)

天彦九段:
 
「AIだけが正しい解を導く」といったような考えは、少し極端なのかもしれませんね。そして、AIの示す候補手とともに、プロ棋士が思いもよらない指し手に思考を巡らせ、技巧を凝らした一手を盤上で指したときに、ファンの皆さんの「将棋は面白いな」と感じる気持ちが沸き上がってくるのではないかと想像します。私は一人のプロ棋士として自身の美意識を描き出す一手にこだわり続けたいとも思っています。

 AI全盛時代ともいえる状況のなかで「人間らしさ」をどのように担保していけばよいのか、その糸口のようなものさえ見えないので、かなり深刻な社会状況になりつつあるのではないかと感じています。いわば「ディストピア」のなかで、AIと対峙できるのはごく限られた能力を持つ人だけなのではないか、そうした人たちがもしかしたら課題を解決してくれるのではないかとつい期待を寄せてしまいます(笑)

 「AIと対峙できるのはごく限られた能力を持つ者だけで、それ以外の人びとはAIとマッチアップできる能力も資格もない」といった極端な状況は、多くの人にあまり望まれていないのではないでしょうか。「無知のヴェール」⁽³⁾ではありませんが、運とか環境に恵まれたごく一部の一握りの人しか自分らしく生きられないような状況は、できれば避けるに越したことはないだろうと思います。仮にたとえ自身がごく一部の人になれなかったにしても、芸術やスポーツや将棋に対する批評のエネルギーのようなものは生まれるはずで、私はそういう意味で評論や批評や批評家というのはとても大事だと思っています。

 というのも、モーツァルトもベートーヴェンもハイドンも、「モノのよさ」のようなものがわかる音楽マニアのような貴族がパトロンとなって支援していたわけです。そうしたことから批評家というのは芸術家とともに重要な存在だと思うわけです。

川瀬:
 今日は突然の対局申込にも関わらず、お相手を務めて頂きまして有難うございました。天彦先生が私のような棋力も実力も不明な他者に対してとても寛容であることがよくわかりました(笑)最後に「盤上における美しい一手」についてお訊きしたいと思います。

天彦九段:
 もし私の美意識を反映した一手が「美しい」とか「面白かった」とファンの皆さんに伝わっているのであれば、表現者としてそれ以上の喜びはありません。

 将棋棋士である以上、自分がやりたいことをすべて言語化して伝えようとは思っていません。モーツァルトの音楽の良さも、「第一主題はこうで、それに対して第二主題はこうで」といったように、聴く側は言葉で説明することが求められるわけではありません。彼の音楽を聴いた時に「うわーこれはいい」と思ってもらった瞬間にモーツァルトの美意識はその人に届いているのだと思います。《なんとなく》届いていれば最高、十分です。他方で、作品を制作する側は届けるためにとにかく考えるし、ひたすら努力するわけです。それは作品の作り手と受け手の非対称性で、どのような芸術でも作る側は身を削って精魂込めて作り上げているのです。私は一人の将棋棋士として抽象的思考や身体的感覚が結晶化した作品たる将棋の対局にこれからも向き合っていきたいと思っています。

プロローグ(取材後記)

川瀬:
 私は新聞社に所属していたこともあるので、著名人の方に急遽(唐突に)問いかけるといったことにあまり抵抗は感じないタイプの人間ではあります。ただし今回の偶発的な対話は、社会通念からすれば、いわゆる「ナンパ」に近いようなものだと自覚しています。改めて天彦先生の穏やかで他者に寛容な姿勢には感謝している次第です。

 これがもし「対局」として成立しているのであれば、強引に先手番を得た私からすれば決して凡局ではなく、天彦先生の当初のイメージ―もしかすると気難しい孤高の棋士かもしれない、そうしたらどうしよう?―といったようなものは完全に払拭された会心の一局でした。この対話の中でも述べた通り、天彦先生の思考の強度には驚きを通り越して「凄まじさ」を感じました。天才の片鱗に触れることができたのは僥倖としか言いようがありません。

 また、その場にたまたま居合わせた将棋の天才の発する言葉から構築される論は、組み立て方が丁寧かつ慎重で、いわゆる論理的飛躍がまるでないことにも感嘆しました。そして将棋の前提を見直し、問い直すことを恐れない、しなやかなでラディカルな強靭さも印象に残りました。天彦先生は自身の棋風を「やや受けの側面が強いバランス型」と取材で答えるようにしているそうですが、この対話以降のメールでのやり取りからも私の猪突猛進な拙い手を着実に受け止めていただき、バランスよくまるで指導対局のように記事の方向性まで指し示していただきました。

 最後に強調しておきたいのは、佐藤天彦という棋士は、人間存在の可能性に対する揺るぎない信奉があるということです。人間存在に対する信頼というものが、なによりも佐藤天彦という棋士の土台になっているのではないかと感じました。改めて天彦先生に感謝申し上げる次第です。

※コメントをお気軽にお寄せください。天彦先生がX(Twitter)スペース配信で寄せられたコメントにもしかすると答えてくれるかもしれません!


[1] Walter Benjamin 1892-1940
 ベルリンの裕福な同化ユダヤ人の家庭に生まれる。1919年ベルン大学で『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』で博士号取得。・・・ ・・・文字印刷と本質的に異なる図像の複製、とりわけ映画がもつ可能性に、ベンヤミンもまた注目する。彼は、複製技術作品からはオリジナル作品につきまとうアウラが消失する、という観点から出発して、映画と観客との関係のありかたのなかに反ファシズムの実践への手がかりを見出そうとする。アウラとは、事物や風景が発散する独特の雰囲気で、一回限りのものであり、手をのばしてもつかむことはできない。複製芸術作品はこうしたアウラとは無縁であって、それゆえ私有することにさして意味がなくなる。とりわけ映画は、同時集団的な鑑賞のしかたや、クローズアップ、フラッシュバックなどの技法によって、大衆の自己対象化と積極的姿勢を触発する、とベンヤミンは考えるのである。(廣松渉ほか編,[1998]2015,『岩波 哲学・思想事典』岩波書店)

[2]注意経済(アテンション・エコノミー)
 ジョナサン・クレーリーは、21世紀が注意経済の時代であると指摘している。「企業の成功はまた、デジタルのアイデンティティをもつすべての個人の行為を予測し変更するために使用され、抽出され、蓄積される情報量によっても測られる。グーグルやフェイスブックなどの企業(いまから五年後にはその名前は変わっているかもしれないが)の目標のひとつは、ドゥルーズが輪郭を示したように、連続的なインターフェイスという理念を標準化し必要不可欠にすることである。このインターフェイスは、文字どおりにはシームレスではないにせよ、関心や応答を絶え間なく要請するさまざまな種類の輝くスクリーンとも相対的に間断なく連動している」「 注意経済は、パーソナルとプロフェッショナル、エンターテイメントと情報の分離を溶解させる」(pp.96-97)

Crary,Jonathan(2013=2015)Late Capitalism and the Ends of Sleep,Verso.(岡田温司監訳,石谷治寛訳『24/7:眠らない社会』NTT出版)

[3]ロールズ,J.が「原初状態 original position」(社会の基礎構造を律する分配原理を契約当事者たちが採択する、仮想の討議空間)に課した3つの制約条件の一つ。契約当事者たちの「誰も社会のなかでの自分の境遇や階級上の地位、社会的身分を知らないだけでなく、親から受け取る資産や生まれつきの諸能力、知性、体力その他の分配・分布が自分の場合どれほど恵まれているかも知らない」という、情報面での制約事項。(廣松渉ほか編,[1998]2015,『岩波 哲学・思想事典』岩波書店)

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