111氏への返書2

事の経緯

①同人サークル「アンゼリ会」の発行する習慣ブログマガジン「ブロマガでエミリアちゃん(エミマガ)」第134回において、私(だいず)は「作品言説考」というコラムを寄稿した。
(私は毎週エミマガに文章を寄稿している)

②111氏がそれに対する感想を配信した。
(氏は毎週エミマガに対する感想を配信している)

③私はその感想において、私の寄稿に対する読み方に誤解があると考え、その旨を書いた文章を、次号のエミマガ第135回において寄稿した。

④111氏が、それに対して自身の見解を感想配信において述べた。またその中で私に対して今後の言及を望むかと質問している。

以下は、上記を踏まえての、111氏に対する私の見解と返答である。

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はじめに、今回の寄稿に関して、私は重大な過ちを2点犯していたことに気付いたので、これについて謝罪したい。

第1点 111氏は誤読をしていなかった

私は本稿において111氏がしきりに理解の仕方を間違えていると書いたが、111氏の返答を見る限り、少なくとも私の指摘した箇所においては111氏はそのような誤読はしていなかった。

それは111氏の返答を読む中で明確になったことで、即ち、氏が私の指摘に対して合理的な説明をしたからである。これは全く健全な議論であるから、このような説明をしてくれた氏には深く感謝すると同時に、私が誤解していた点について陳謝したい。

実を言うと、私は本稿を書く前から111氏が誤読をしていなかった可能性──氏がどのように考えていると考えると、誤読ではないと言えるかについて薄々気が付いていた。そして氏自身の説明と、私の考えていたそれは概ね一致していた。それにも拘わらず、私はその可能性をほとんど無意識的に排除してしまい、111氏が誤読をしていると寄稿内にて断定した。これは完全に私の誤りであった。
正しくは、誤読の可能性を示唆しつつ氏の真意を問う、という内容にするべきであったと思う。

なぜ私が誤読だと断じたのかの理由は恐らく2つある。
1つは、そのように考えた方が寄稿文章の論理的整合性が取れ、理解しやすいと思ったからであろう。確かに論理的には妥当であったかもしれないが、事実でないことを根拠にしたので、結果的に誤った議論になってしまった。これは私の知的怠慢であったと深く反省している。
もう1つは、次の項目に関わるが、そのように考えた方が穏当に事を済ませられると考えたからだと思われる。しかしこれは却って議論を複雑にし、いたずらに混乱を招いたものと思う。

第2点 私の批判主旨が的確でなかった

私は本稿にて111氏の読み方が間違っていることを主張した。しかし、今改めて考えると、私の批判するべきことはそれではなかった。
私は文章の読解というテクニカルな部分に言及すれば、自ずと自分の主張が明らかになり、相手に通用するものと考えていたが、これは全く保身的で逃避的な甘えた考えであった。私は倫理的な批判にまで踏み込まなければならなかった。
即ち、「111氏が不用意に他人(この場合は私)の論に対し批判的見解を述べたこと」、これを私は直接的に言及するべきであった。
注意してもらいたいのだが、私は、批判的見解を述べてはいけない、ということを言っているのではない。「不用意に」そうするべきでないと言っているのである。

批判には慎重でなければならない

111氏は、拙稿「作品言説考」において挙げられた《ヴェスクガンズの戦い》の例とその前段との繋がりをさして、「繋げ方がよろしくなかった」「うまいことを言えていない」と批判した。大した批判ではないと思うかも知れないが、批判は批判である。当然、このように批判をするには、その根拠を述べなければならない。そうでなければ、それはただの難癖であり、悪口である。たとえ感情的・感性的な批判(ネガティブな感想)であったとしても、それに至った経緯なりを周辺の心情なりを詳述する必要があるものと思う。それによって、その批判が合理的なものかを判断できるからである。

しかし、111氏の言説内には、その理由に当たるものが少なくとも明瞭な形では一切書かれていなかった。
これは、極めて唐突で、無根拠な批判である。

(後に111氏は「ダイナミズムが嵌まっていないという話だった」と釈明した。しかしそれは非常に感性的な問題で、一応批判の内容は一定程度推察することはできるものの、依然として正当で合理的な批判とは私には感じられない。)

私が真に批判するべきであったのは、このような無作法な言説そのものである。
今改めて問い質したいのは、111氏は聴衆、特に言及されている本人(この場合は私である)に対して十分に配慮し、十分に敬意を払った言説を行っていたかということである。

私はこのような言及をすることが非常に不穏当なものであると考え(倫理的な批判は、相手も自分も傷付ける)、安直なテクニカルな批判に逃避した。そのことは私の過ちである。

それと同時に、111氏には、改めて上記内容について深く自問していただきたい。

誤読は確かに問題である

私は当初111氏の誤読を指摘したが、これが的確でなかったことは上述の通りである。
しかしながら、以前より私は氏の読解の正確さ、及び言説の適正さについてはある程度の疑念は持っていた。
であるから、いずれかのタイミングでこれを指摘しないわけにはいかないとは思っていた。そして、この度それをするに至ったのであるが、結果的には適切なタイミングではなかった。

一方で、これによって氏のスタンスが氏自身の開示により明らかになるに至った。
そして、私はそのスタンス──誤読をしても良い(そしてそれに基づいて発言しても良い)という氏の立場には承服しかねる。

「そこにはっきりものが書かれている以上、それを読まないのは読者の責任である。
エミマガはもちろん真剣に読む価値があるので、読者諸賢はしっかり読んで欲しい。」
この偏狭さが割と気になって、いやそれはだいずさんがそう読まれたいというだけでしょっていう。
エミマガ全体の総意なの、それ?

このように氏は言うが、上記引用内の私の言葉は、当然私自身の作文であるから、私の考えを述べたものであり、エミマガ全体の総意を表したものではなく、固よりそのようなものは全く想定されていない。
加えて、自分の意志でエミマガに寄稿をしている者として、「エミマガは読む価値がなくいい加減に読んでも良い」などということは言えようはずもない。もちろん私自身そんなことは信じていない。それをしっかり読んでほしいと読者に希望することは、至極当然のことである。実際に読む価値があるかについては、各々の読者が自分で考えれば良い。
他の寄稿者が何と言うかは知らぬ。私がそう思う、ということと他の寄稿者が別のことを考えている、ということは特段矛盾しないことである。上記の氏の批判は全く的外れである。

なお氏は、

だいずさんの文章の特徴として、間違いを犯すまい、突っ込まれる所を用意すまいとばかりに
固くなってる(故に難解になる)という所があると思うけど、
他の寄稿してる人にも同じ物を望むの?

とも言っているが、私は既にエミマガ全体に対しては「読む価値がある」と考えているのだから、今以上のものを他の寄稿者に求めることはしない。そしてその「価値」の根拠は、氏の言う「間違いを犯すまい、突っ込まれる所を用意すまいとばかりに固くなってる(故に難解になる)という所」とは全く無関係である。氏のこの言及も、やはり的外れであろう。

ただし、後の「発言者の責任」の項目に述べる責任については、当然、他の寄稿者にも求める。それは寄稿者だけでなく、凡そすべての人間に求めるものである。

読者の責任

私はここで「読者の責任」という言葉を使った。これは多分氏にはやや拡大解釈されている節があるが、私の言い方が言葉足らずであったと思うので、補足しておきたい。

「責任」というのは、この段においては「自由」とほぼ同義語である。自由のあるところに責任がある。つまり、どのような読み方をするのも読者の自由であり、当然その読み方によって文章の理解度には差が出るが、その結果に責任を負うという話である。
しっかり理解したければしっかり読めば良いし、それほどでもないと思えばそれなりの読み方をすれば良い。ただし、それは自分の裁量によって決めたことであるから、それは他ならぬ読者の責任だということが言いたかった。
(固より私は「読むのは読者の責任だ」ではなく、「読まないのは読者の責任だ」と言っている。このことにも注意されたい)

発言者の責任

氏はこのように言っている。

気無しに感想を書いたら、こうやって名指しで訂正されるような、
それだけの”責任”を読者に求めるの?

これについては、はっきり「その通りだ」と言わなければならない。

私は読者に対しては、文章をしっかり読むように希望した。それを聞き入れるかどうかは読者の自由にすれば良い。そして、読者が物言わず黙っている限りは、私は当人がどのような理解程度に達したかは知りようもなく、当然批難のしようもない。更に言うと、仮に理解していなかったことが明らかになったとしても、それは読者の自由であるから批難には値しない。

しかし「(気無しかどうかはともかく)感想を書いて公開する」段まで行けば、これは全く話は別である。このような能動的な行為については、別種の責任が発生すると考える。
それは、その感想に対する感想を書かれる、ということを受け入れるということである。もし理解を間違えていれば、それを訂正され得るということでもある。理解を間違えたうえに批判的な感想を書いていればなおさらである。(繰り返しになるが、今回の氏の感想は理解を間違えたわけではなかったと今は考えている。これは原則の話である)

逆に聞くが、君は、他人の文章に言及しながら、その理解程度を問われずに済むと思っているのか?仮に誤読が明らかになった場合は、それを訂正されずに済むと思っているのか?

──換言すれば、君は元の文章の筆者に好き放題言っておきながら、その筆者からの反論は受け付けないという姿勢なのか?

実際当の筆者が反論や訂正をするかはその時時の判断であるが、筆者には当然その機会が与えられるべきである。もちろん、その反論や訂正が不適だと考えたならば、さらに反論しても良い。
(なお、今「当の筆者が反論や訂正をするかはその時時の判断」と言ったが、実際には「当の筆者」には限らない。それを見ていた第三者が指摘することもあるであろう。それはその第三者の責任においてすれば良いことである)

ここに111氏の今回の返答における、最大の過ちがあると思う。

111氏は、自分の言説に対して、極めて唐突に私が批判をしてきたという被害者の立場を取っている。

気無しに感想を書いたら、こうやって名指しで訂正されるような、
それだけの”責任”を読者に求めるの?

この言葉がそれを物語っている。氏は、あくまで読者一般という意味で言っていると言うかも知れないが、それは通らない話である。氏も読者の1人に間違いはなく、まさしく「気無しに感想を書き、こうやって名指しで訂正されるという責任を(私から)求められた」存在だからである。

しかしそれは間違っているのだ。

正しくは、111氏自身が、私の寄稿文章に対して、「名指しで」批判を加えてきたという加害者なのである。「先に」それをしたのは、氏の方だからである。

今、話を分かりやすくするために「被害者」「加害者」という言葉を使ったが、もちろんこれは正確な表現ではない。
私は、氏が私の寄稿に対して批判を加えること自体は決して否定してはいない。私は上で、不用意に批判するべきでなく、その言説が十分に配慮と敬意を持ったものであるかを考えるべきだと言ったが、しかしながら、どのような言説であれ、それは最終的には言う本人の自由ではある。

だが、君は元の文章の筆者に好き放題言っておきながら、その筆者からの反論は受け付けないという姿勢なのか?

だとすれば、それは全く不適切な態度である。自分の自由を認めるならば、他人の自由も認めなければならない。これは当然のことであろう。

私は上で、「誤読をしても良いという氏の立場には承服しかねる。」と書いた。「承服」という言葉が曖昧であるが、私自身の感情的な是非を含むものであろう。「好きか嫌いかで言うと、嫌いだ」という程度の意味に取っても良い。その意味では、確かにこれは氏の言う「アプローチの違い」として片付けても良い。

でも他にも、分からんけどとりあえずアウトプットしてみる、それを よすが にする、そういうやり方もあるかなと思います。

私がここで断然主張しなければならないことは、もしそのようなやり方を取っているのであれば、当然、アウトプットし返されることを受け入れなければならない、ということである。

そしてその違うアプローチが衝突する事もあるよねという事で、

現に、今、衝突している。私はこれが、一応は、健全な議論であり、健全な言論空間のあり方であると考えている。
ただし、極めて、不快である。
氏も不快であったろうことは、想像するに難くない。
健全な議論というものは、極めて不快なものなのである。
不快であろうと、必要ならばそれをしなければならない。

問題はそれを望むのかということであるが、これは最後の返答に関わることである。

動機と行動と、その結果

氏はこのようにも述べている。

今号の周りを見てみて下さいよ、寄稿も休止ばかりでしょう。
なんでかというと、文章を書くって結構大変な行為で、だけどそれに見合った報酬、
ここではタダで書いてるんだから、面白い反応とかが少ないからじゃないかって思うんですよ。

私は最近の寄稿に休載が多い理由は別にあると思っているが、反応の少なさがモチベーションの減退に繋がることはあり得るであろう。巡り巡って休載に繋がっているのかも知れない。反応が多いということは、確かに寄稿者当人にとってもありがたいことである。
恐らく、氏自身もそのことを考えて感想配信をしているのであろう。エミマガ全体を盛り上げようという善意の行為であろうことは想像に難くない。

しかしながら、それが逆の効果を生むことを想定しなかったのか?
即ち、自分の不用意な発言が、却って寄稿者の意気を挫くという可能性についての想定である。

思い出していただきたい。
111氏自身がかつてエミマガの寄稿者であったのに、なぜ今はそうでなくなっているのか。

恐らくこれはエミリア氏が111氏との個人的な会話を引用したのであろうと推察され、今回とは少々事情が異なることは押さえておきたい。また氏自身によって公に発信された発言であって、すべての心情を正確に表しているわけではないであろうということも、考慮しなければならない。

しかし、本質的には同じことが起こり得るということを考えてなくてはならない。
善意でしているから、という動機の正しさを理由として、その行動と、行動の齎す結果のすべてが肯定されるわけではない。

そして今、氏はそれについて深く考えつつあるものと思う。

質問に対する返答

氏は私に、今後私の寄稿文に言及しないことを望むか、と質問されている。
この提案は、この問題の、そして今後起こり得る問題の平和的な解決法として、極めて合理的で適切なものだと思う。

これまで私が述べてきたことをお読みになれば、私の考えは明白であろう。

それをするかは、氏が氏自身の責任において決めることである。私は従前通り、氏に対して何かをせよともするなとも言わない。
そして従前通り、氏の発言した内容については、私の責任において言及する可能性がある。

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