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怪談市場 第六十三話

『水耳』

一種の共感覚だろうか。

景子さんは物心ついた頃から小学二年生までの数年。ときおり奇妙な感覚に見舞われた。

不意に腕を引っ張られると、耳の奥で水音が響く。

「どっぽおおぉぉーん……」

大きくて、妙に反響した水音である。

もちろん周囲を見回しても大量の水はない。

例えば、母親と横断歩道で信号待ちをしているとき。信号が青に変わったことに気付かず立ち尽くしていた景子さんの手を母親が引っ張って……。

「どっぽおおぉぉーん……」

例えば、幼稚園でお遊戯中、フリを間違えた隣の子と繋いだ手が引っ張られて……。

「どっぽおおぉぉーん……」

例えば、小学校で隠れんぼをしているとき、いい隠れ場所を見つけた友達が「こっち」と手を引っ張って……。

「どっぽおおぉぉーん……」

そんなことが、何度かあった。

その感覚を体験した瞬間は不思議に思って、「家に帰ったらお母さんな話さなきゃ」と思いはするが、帰宅する頃にはきれいさっぱり忘れている。まだ幼く体感的な常識と非常識の区別が曖昧だったためか、普段は気にしてもいないし、思い出しもしなかった。結果的に、その不思議な感覚は、さほど長い時間ではなかったが、自分の胸のうちに秘める形になった。

小学二年の冬、お母さんの父親が亡くなった。景子さんにとっては母方の祖父である。

母の実家を訪れた記憶はない景子さんだったが、葬儀に出席するため連れられて行ったその家は、どこか見覚えがあった。

瓦葺きの平屋、様々な農機具が収納された納屋、生け垣に囲まれた広い庭。

畳敷きの広間、線香に燻されたような仏間、床の間に飾られた掛け軸の水墨画。

家の外も、中も、見たことがないはずなのに、どこか懐かしい。いや、家だけではない。景子さん親子を出迎えた黒い着物姿の老女も、母親が「お母さん」と呼ぶより早く、なんとなくではあるが「お婆ちゃん」のような気がした。なにより通夜の祭壇に飾られた遺影を見て咄嗟に、「お爺ちゃん」と認識した。

そんなことが、不思議で、そして面白い。

母親が通夜の手伝いで忙しくしていたため、一人で家の隅々まで探索した。

裏庭で、妙なものを見つけた。

土中から、景子さんの膝の高さほど、細い塩ビ管が伸びている。

(あれ、なんだろう?)

歩み寄ろうとして、不意に背後から手を引かれた。

「どっぽおおぉぉーん……」

例の水音が耳の奥で響く。

振り向くと、お婆ちゃんが不安げな表情で景子さんの手を握っている。

「ごめんね。驚かせちゃった?」

お婆ちゃんは、硬直する景子さんに取り繕うような頬笑みを浮かべ、そっと手を離す。どこか寂しげで、先ほど母親と景子さんを出迎えたときよりも、黒い着物に包まれた体はひと回り縮んだように見えた。

「そこは、ちょっと前まで井戸があったんだよ」

お婆ちゃんが地面から突き出た塩ビ管を指差して言う。井戸には神様が住んでいる。だからやむを得ず井戸を埋めるときは、神様が息をつけるよう、地上に筒を出して空気孔とするそうだ。

「ふーん……」

感心して塩ビ管に目を戻す。その瞬間、見た記憶のないはずの井戸の光景が、景子ちゃんの脳裏にありありと浮かぶ――コンクリート製の円い井戸の枠。水を汲むための木桶と綱、それを操る木の車。小さいながら、屋根もついていた。

(わたし、このおうち、来たことある)

景子さんはようやく思い出した。以前、やはり母親と一緒にこの家を訪れ、祖父と祖母に出迎えられ、家中を探索した。そして裏庭へたどり着き、井戸を見つけた。地方都市育ちのせいか、井戸を見るのが初めて。興味津々歩み寄り、観察し、冷たく湿った井戸の縁に手をついて、中を覗き込んだ瞬間……。

目に見えない何者かに手首をつかまれ、井戸の中に引きずり込まれた。

「どっぽおおぉぉーん……」

そして、あの籠って大きな水音を全身で聴いたのである。

「わたし、この井戸に、落ちた……」

ふと口をついて出た景子ちゃんの言葉に、お婆ちゃんは目を丸くした。

「おや、憶えてたのかい? あのときはまだ三つだったから、てっきり忘れてるのかと思ったよ」

お婆ちゃんの話によると――井戸に落ちた景子ちゃんは一旦沈んだものの、すぐ浮きあがり、水面でもがいていた。たまたま釣瓶が下りていて、手に触れた綱を無我夢中で手繰ったようだ。おかげで水面から顔が出て、すぐに溺れるような状態にはならなかった。すぐそばで大人が見ていたことも幸いした。お爺ちゃんが納屋にあった手鉤を針金で竿竹の先にくくりつけ、それで景子ちゃんの服の襟首を引っかけ、助け上げたのだ。

「それまでは時々、お母さんと一緒に遊びに来てくれた景子ちゃんが、あの日を境に今日まで訪れることがなかった。お爺ちゃんはそれを、『景子ちゃんが井戸を怖がっているせいだ』って気にしていてねえ……」

思い起こせば、景子ちゃんは三才ぐらいで幼稚園へ通い始め、母親もパートで働きに出た。お母さんの実家を訪れなくなったのはそのせいだ。景子ちゃん自身は井戸を怖がっていたわけではない。むしろこの家の存在さえ忘れていたのだ。

「それでいよいよ、思い余ってお爺ちゃんは井戸を埋めたんだけど、それから一週間もたたずに、あんな……」

お爺ちゃんがどんな死に方をしたのか、景子さんは聴きとることができなかった。突然、耳の奥が「じゅう」と鳴って熱くなり、生温い水が流れ出してきたのだ。

それ以来、景子ちゃんが不思議な水音を聴くことはなくなった。

「あの井戸には、いったいどんな神様が住んでいたんだろう?」

大人になった今でも、ときどき考えるそうだ。

#怪談

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