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怪談市場 第三十七話

『凍死と素麺』(ケイイチさん 2)

「俺はこれまでに2度、凍死の危機に直面した経験があるんだ」

山歩きが趣味のケイイチさん(仮名)は、そう思い出を語り始めた。

1度目は学生時代、山岳部のメンバーとの冬山登山中に、天候の急変に見舞われてビバークし、遭難しかけたとき。さいわい翌日には天候が回復し、仲間たちの介抱もあって、一時的な低体温症と軽度の凍傷程度で下山できた。

2度目は就職して数年、結婚して2年目の年明け。場所はなんと、自宅の目の前。

その日は夕方から会社の新年会があった。根が体育会系のケイイチさんは2次会、3次会の誘いを断らず、むしろすすんで出席し、帰路に就いたのはすでに深夜。なんとか終電には駆け込んだものの、最寄駅から自宅マンションまでのバスはとうに終わっていた。距離は4kmほどで、途中に坂道もある。

「なあに、山で鍛えた脚にはチョロいもんさ」

酒のせいで、かなり気が大きくなっている。人待ち顔のタクシーに脇目もふらずに駅前ロータリーを抜け、ケイイチさんは徒歩で自宅を目指した。折しも寒波が到来し、強い冷え込みに見舞われた夜。天気予報では確か、最低気温が氷点下になると報じていた。強風とは言えないが風もけっこう吹いている。アルコールで火照った頬を、冷たい風が剃刀のようにヒリヒリと撫でていく。でも、それが妙に心地よい。かなり酩酊している証拠である。調子に乗ってコートを脱ぐ。それでも、坂道を足取りも軽くのぼると汗ばんだ。喉が渇いたので、目についたコンビニに立ち寄り、缶酎ハイを買って、また飲みながら、また歩く。これがまた気持ちいい。

やがて、マンションが見えてきた。妻と、昨年産まれた娘が待つ我が家だ。だがケイイチさんは自宅に直行せず、隣接する公園へ立ち寄って一服することにした。家庭内では禁煙なのである。東屋のベンチに腰を下ろすと、歩行中には気付かなかった疲れが一気に出た。思わずうめいて寝そべる。東屋の屋根の縁から見える夜空に星がまたたく。

「キレイだなー。空気が澄んでる。まるで山にいるみたいだ」

タバコに火をつけることも忘れて夜空に見惚れているうち、急に眠気を感じた。

「いかん、いかん。こんなところで寝たら風邪をひく」

そう考えながらも、眠ってしまったらしい。それも、けっして短いとは言えない時間を。ひどい頭痛と全身の震えで、一時的に目が覚めた。起き上がろうとしたが、身体はほとんど動かない。風邪どころではない。学生時代に雪山で経験した低体温症とまったく同じ症状だ。

「あのときは、牙をむく大自然の真っただ中だったけど仲間がいた。でもいまは、文明社会の恩恵に囲まれながらも孤立無援だ」

そう考えたら、急に怖くなった。助けを呼ぼうにも、歯の根が合わないほどの震えで、まともに声も出せない。スーツのポケットから携帯電話を出したはいいが、指がかじかんで思うような操作ができない。そうしているうち、また瞼が重くなった。

「いま寝たら死ぬ。嫌だ、まだ死ねない。妻と産まれたばかりの子供を残して、死ぬわけにはいかない」

必死に自分を励ますが、意識は遠ざかる。睡魔に屈服する直前、ケイイチさんは頬に妙な感触を覚えた。

「えっ、素麺?」

茹でる前の素麺を、何本も顔に押し付けられ、それがポロポロと折れる感触。

「この寒いのに、なんで素麺?」

場違いな感覚入力に意識を引き戻されて、ケイイチさんは重い瞼をこじ開ける。

目の前に、若い女の顔があった。

生きた人間ではないと直感した。皮膚にまったく血の気がない。顔にも髪にも、白く霜が付着している。見開いた両目は、表面が薄く凍りついていた。

「うわっ!」

恐怖が起爆剤となって、声が出た、身じろぎができた。その拍子にベンチから落ちる。あたりを見回すが、ついさっき自分の顔を覗き込んでいた、あの凍った女は姿を消していた。そのかわり、小さな明かりが揺れながら近づいてくる。懐中電灯の光のようだ。

「そこに誰かいるんですか?」

声を張り上げてケイイチさんに駆け寄ったのは、巡回中の若い制服警官だった。

「助かった……」

安堵して、ケイイチさんは意識を失った。

制服警官が速やかに救急車を要請したため、ケイイチさんは大事に至らず、丸1日の入院治療で退院となった。奥さんからたっぷりお説教をくらった後、ケイイチさんは菓子折を手に近所の交番へ赴いた。命の恩人である制服警官に対する、せめてものお礼のためだ。昨夜、偶然この公園をパトロールしてくれなかったら、間違いなく凍死していた。

だがそれは、あながち偶然でもなかったらしい。訪ねた交番で丁寧に礼を述べると、制服警官は事情を語ってくれた。

「じつは1年前のちょうど今頃、若い女性があの公園で凍死しましてね。以来、冷え込みのきつい晩は、公園のベンチで寝込んだ人がいないか確認のため、頻繁にパトロールをしているんです」

ケイイチさんの脳裏に、ゆうべ見た女性の顔が蘇った。意識の薄れかけた彼の目の前に現れた、凍りついた女。てっきり低体温症による幻覚だとばかり思っていた。

凍死したのはOLで、仕事帰りに同僚と遅くまで飲み、やはり終バスを逃し、徒歩で帰宅途中だった。天候がひどく不安定な晩で、急な雨に降られて公園に駆け込み、東屋で雨宿りしたが、走って酔いが回ったか、そのまま寝込んでしまったらしい。雨が上がると急激に冷え込み、北風も強まって体温を奪われ、凍死したのだろう。発見は早朝散歩の老人で、通報を受けて駆けつけたのはケイイチさんを救った警官本人だった。当時を思い出し、彼は身を震わせて状況を教えてくれた。

「濡れた髪が凍りついて、触れるとポロポロと折れるんだよ。まるで茹でる前の素麺みたいにね」

聞いた瞬間、あの凍った女は幻覚ではないと直感した。頬に妙な感触を覚えて、ケイイチさんは目を覚まし、女性を目撃したのだ。それは、凍った髪が折れる感触だったのである。

凍死した女性は、死に場所となった公園をさまよい、何をしたいのだろうか――凍死の道連れを招いているのか、それとも己の轍を踏もうとする者を救っているのか。

「どっちでもいいけどね。それより、我が家の明かりが手の届きそうな場所で、ひとり孤独に凍え死ぬ、そう覚悟したときの絶望と恐怖、それに比べれば、亡霊が何をしたいかなんて大した問題じゃないさ」

ケイイチさんはそう話を締めくくった。

ケイイチさん 1 https://note.mu/ds_oshiro/n/n7619469fb8eb?magazine_key=me0a9394df7c9

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