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怪談市場 第六十七話

『自動販売機』

「その自販機が異様だと感じた原因は音声でした」

そう語る菊池さん(仮名)は当時、全国チェーン飲食店の支店長を務める三十代に突入して間もない独身男性。職場は俗に言うブラック企業で、バイトのシフト組みから調理、清掃、仕入れまでこなす典型的な雇われ店長。過労死寸前の激務をぬって五分、十分の隙間時間を確保し、店舗の裏口にほど近い自動販売機で缶コーヒーを飲むひと時が、菊池さんの心と体が休まる唯一の時間だった。

その日も夜のラッシュをなんとかこなし、遅すぎる休憩時間を確保すると裏口から逃げだし、明かりに吸い寄せられる蛾のように、愛すべき自動販売機へとたどり着いた。

その自動販売機は音声案内機能付きなのだが、声質が変化していることに菊池さんは気付いた。昨日までは渋みのある男性の声だったが、その日は若い女性の声だった。声が変わったのはそれが初めてではない。渋い男の声になったのは数日前で、その前は確か子供の声だった。気付かないだけで、それ以前にも声が変わっていたのかもしれない。

コンビニの珈琲が好評で自動販売機の売り上げが激減しているとのニュースを近ごろよく聴く。ユーザーをつなぎ止めるため、声のバリエーションに変化をつけているのだろうか。

「どの業界も崖っぷちで死に物狂いの企業努力をしてるんだな……」

溜め息をつきながら菊池さんは、財布から小銭を出そうとして掴みそこね、百円玉を落としてしまった。コイン一枚まともに扱えないとは、よほど疲れているようだ。仕事中のミスでなくてよかったと安堵しながらも、気を引き締めようと平手で頬を叩きながら、しゃがんで落ちた硬貨を拾う。

その瞬間、自動販売機の下から何者かの手が伸び、菊池さんの手首を掴んだ。

アスファルト敷きの地面と自動販売機の底とは、三センチほどの隙間しかない。子供どころか、子猫さえ潜む余裕はないのだ。菊池さんの手首を掴んだその手は明らかに、この世のものではない。

驚きはしたものの、怖いとは思わなかった。

白く、ふくよかで、温かな、おそらくは女性の手のひらが、掴むというよりは優しく包むように、菊池さんの手を取っている。やがて奇妙な手は菊池さんの手を握ったまま、恐る恐る自販機の下へ戻ろうとする。ただし引きずり込むように強引なものではなく、控え目に誘うような動作だった。

(このまま身を任せてしまおうか……)

一瞬、菊池さんはそう考えてしまった。

月に百時間をゆうに超える残業。もちろんサービス残業だ。身勝手なアルバイト、悪質なクレーマー。エリアマネージャーからのプレッシャーは、ほとんどパワハラだ。疲れ果ててアパートの部屋に返っても、配送や仕入れ先が時間などお構いなしに電話してくるので、おちおち寝てもいられない。たまの休日も、本社の研修や勉強会(強制ではないが参加しないと給料査定に響く)で潰れる。会社には絶対服従なので上司に業務の改善要求もできない。不景気の御時世、自分の代わりはいくらでもいるのだ。

(この奇妙な手の住む世界……この世ではないどこかのほうが、現実よりマシなのでは……?)

菊池さんは裏路地に這いつくばるように、力を抜いて奇妙な手に自分の腕を預けた。次の瞬間、自動販売機のイメージが菊池さんの脳裏をよぎる――唯一の安らぎの場、いつもの自動販売機。だがそこに菊池さんの姿はない。誰もいない空間に自動販売機の音声が響いている。それは菊池さんの声だった。

(まさか、誰かを引きずり込むたび自販機の音声が変わるのか……)

そう考えた途端に恐怖が膨張し、菊池さんは奇妙な手を振り払うと全身をバネにして飛び退った。路地裏に尻もちをついたまま眼を凝らしても、すでに奇妙な手はどこにも見えない。暗がりで自動販売機が淡い光を放つ、いつも通りの「憩いの場」が目の前にある。

「幻覚か……」

きわめて現実的な判断をしたが、菊池さんの心は晴れない。怪奇な幻を見るほどに疲れ果てていたことに愕然とする。この世ではないどこかのほうが現実よりマシ――そんなことを一瞬でも考えてしまった。肉体的にも精神的にも、限界まで追い詰められていることを自覚できていなかった。

菊池さんは、その日のうちに辞表を書いた。

辞職して一ヶ月ほどが過ぎたころ、かつての上司だったエリアマネージャーから電話があった。常に高圧的だった彼が、電話ごしにも平身低頭する様子がわかるほど丁重に、菊池さんへ職場復帰を懇願する。よほど困っているらしい。聴けば、菊池さんの後任となった社員が失踪したとのこと。休憩時間に「ちょっとそこの自販機でコーヒー買ってくる」と言い残し、そのまま消えたらしい。まだ再就職に手間取っていたが、上司からの誘いはキッパリ断った。

菊池さんはいま、アルバイトをしながら社会福祉士の資格を取るために勉強している。

#怪談

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