最近の「やっちゃえ!日産」に感じる違和感

基本的にやっちゃった人が好きである。

踏み留まっちゃった人よりはやっちゃった人、やらずに我慢する人よりはやっちゃった人、そんな人が好きなのだ。

この「やっちゃった」という感覚は、英語で言うと "Cross a line" という言葉に近いかもしれないのだけど、普通はやらんよね…という壁を超えて先に進んでしまう感覚を表しているのではないかと思う。そして、その感覚が好きなのだ。

「壁を越えたらどうなるんだろう?」とか、「丘の向こうには何があるんだろう?」とか…ちょっと言語化するのが難しいのだけど、「新しい世界にワクワクして、危ないかもしれないと思いつつ、進んでしまう」みたいな感覚だ。

もちろん、一般的にはいわゆる「普通」の中に留まっていた方が安心だし、安全で、リスクも少ないし、賢い生き方なのだと思うが、全ての人がそういう生き方を選択すると、社会が閉塞して行く…というか、ダイナミズムがなくなる…というか、そういう感覚を持っている。

社会全体があまり動いていないときには、おそらくそれでもうまく行くと思うのだが、これから社会が変わっていく…という時代には、そういう人たちがいて、少しずつ変化に備える…というか、そういう存在がいた方がむしろ社会全体が安定に最適な方向へ変化していけるように思うのだ。

つまり、「型にハマらない人が少しはいた方がいい」という感覚だ(数理技術に馴染みのある方は Simulated Annealing とか強化学習なんかを思い浮かべて頂けたらと…)。

そういう意味では、日産の「やっちゃえ!」という CM のキャッチコピーが非常に好きだったのだが、最近思うのはいまの日産には全然「やっちゃった感」がないように感じている。

ゴーンさんのいた頃には、普通はやらんよね…という「電気自動車の量産」に手を出したり、しがらみがあってうまく整理できなかったものを整理したりして、要するに「一線を越えまくって」いて、それがある種のダイナミズムを生み出していたように思うのだけど、いまはそうした感覚が段々となくなってきているんじゃないか?と感じている。

実際、いまの日産の CM に出ている木村拓哉もどちらかと言えば、「一線を越えなかった人」、「思い留まった人」、「いままでの型から外れない人」という印象の方が強く、決して型から外れる「やっちゃう」タイプの人ではない。どちらかというと「型から大きく外れないカッコいい人」だ。

むしろ「やっちゃった」のは、ハゲメイクをして育毛剤の CM に出る草なぎさんやら、香取さんやらの方で、決して木村さんではない。彼らは「超えちゃいけない」と思われてたいた業界の「鉄壁」を超えちゃった人たちだ。

そういう意味では、いまの日産の CM には何か違和感を感じてしまうし、木村さんを CM のキャラクターに選択してしまった日産にも違和感を感じている。

本気で一線を越えようとしてきた矢沢永吉と、一線を越えずに留まった木村拓哉では、同じ「やっちゃえ」でも言葉の意味が全然違うように思うのだ。

日産は本当に挑戦し続けようとしているのだろうか?

もし、もう挑戦することをやめたなら「やっちゃえ!日産」みたいなミスリーディングなフレーズはいつまでも使わずに封印してしまった方がいんじゃないかと思う。言葉だけの「やっちゃえ」には意味がないし、むしろ「安心・安全!日産」とかに変えた方がいいんじゃないか?と思う。

極めて個人的な感想ではあるのだけど、日産には「常識を打ち破る」みたいな「ふっきれた挑戦者」のイメージがあって、それが非常に好きだったのだが、それが安定志向みたいなものに変わってしまうのだとしたら、本当につまらなくなってしまったな…と思う。

日産には、EV バージョンのフェアレディでテスラ をぶっちぎってみせるとか、もっとクレイジーで、ロックで、カッコいい日産を見せて欲しいと思うのだが、そんな風に思うのは自分だけなのだろうか…


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