いい子にしてそこでちょっと見てなさい
西野マドカさん
noteのこの鼻につくいやらしい真っ白な、いかにもほめてほしそうなインターフェースに向き合って、さて今日はいったい何を書こうかと、しばらく考えています。
かつての私であれば、
「ふつうに暮らしているうちに、自分の中からなにごとか、書きたいもの、書けるものがうかびあがってくるものだ」
と、自分の作家性のようなものに対する無垢の信頼を隠しもしませんでした。
しかし、あらためてあなたからの一番新しいお手紙を受け取って、あらためて気づいたことがあります。
私はこの往復書簡というゲームにおいて、「自分の中から取りだしたなにか」を書いた記憶が、おどろくほど少ないのです。ないと言っていい。
自分の中からうかびあがってくるような、「語りえるもの」を、このお手紙のやりとりの中では、あまり取り扱ってこなかったように思います。
あなたから私に届いたお手紙にも、私からあなたに届けたお手紙にも、たくさんの風景が書かれました。
その風景には、山川草木、太陽や海原、飛行機や船といった、世界のわりかし外側に貼り付いているようなものばかりではなく、あなたの姿や、あなたと私とのやりとり、すなわち、世界の最奥よりもう少し私の側に寄ってきてくれるもの、あるいは、私からそちらへ手を伸ばして一緒に作り上げてきたものなどが含まれていました。
つまりは、私の眼から見える私の眼以外のもの、私の心が感じる私の心以外のもの、そのすべてが含まれていました。
自らが語りえるものを語ることをいったん留めおき、沈黙をして、少しだけ既知でわりと未知である風景を見る。
自分の少しだけ外から、世界の際まで、あらゆる風景を見る。
音を聞く。耳を澄ませる。ノイズの中から呼ぶ声を探り取る。
他者の書いた手紙を読む。じっと読む。かの地に降る雪の色を想像する。
私の中からいつでも出てきたがっている、「語りえるもの」たちも、いい子に黙ってそれらを読んでいました。
そして、これまで「語りえなかったもの」たちが、召喚獣のように現れる。
私たちはいつしか、お互いの心だけでは語れなかったはずのものを、相手の心が直接見える超能力を持つわけでもないのに、相手が書きたいことをコントロールできるわけでもないのに、なぜかやたらと使いづらい言葉という微妙な道具を使って、そこに彫るでも、練り上げるでもなく、あなたから私へ、私からあなたへ、放ったり受け取ったりするようになっていました。
SNSを仕舞い、往復書簡を仕舞い、人前に出るイベントも断りはじめた昨今、幾人かから大意でこのようなことを言われました。
「これからは、なにか、本でも書かれるおつもりですか」「他者とのやりとりをセーブするということは、自分の心の声と向き合うということですよね」「きっといいものが書けますよ」「自分の生活が第一ですから」「周りとの関わりはあまり気になさらずに」「今までが多すぎたくらいなんですから」「ご無理なさらず普通に暮らしてください」
ありがとうございます。
でもね、ぼくの人生も、記憶も、思想も、自分の心の声だけ聞いていたところで、何一つ書けやしませんよ。
書くなら、やりとりしないと。
少しだけ未知の相手と、やりとりしないと。
日常に潜む維持の手さばきの中にちらりと見える意地のようなもの。眼鏡を外したときの中心視野がまるで辺縁視野のようにぼけることで見えてくるテクスチャの色温度。配慮と失念のあいだで揺れる気まぐれ。眼と脳のこと。鼓膜と声帯のこと。おどろきの後からやってくる言葉。
語りえると思っていた自分の中の何かが、別様に語られることのうれしさ。
そういったものをフリカケみたいにまぶした、やさしくておだやかな差出人と、やりとりしないと、ぼくはもう何一つ書けやしませんよ。
それはもちろんあなたのお手紙です。それによって私は、自分がこれまで語りえなかったことを今日のお手紙に書くことができました。
ありがとうございます。ありがとうございました。また次の機会に、語りたいことが山ほど溜まったある日に、それらをいったん、脇に置きつつ。
(2023.11.24 市原→西野)
※往復書簡マガジン「さばくのひがさ」はこれにておわりです、
4年半にわたるお付き合い、
読者のみなさんありがとうございました、
西野マドカさん、ありがとうございました、
どなたさまも、またぜひ。