見出し画像

愛着が分化した先の好奇心

にしのし


お手紙を、折に触れて読み返しています。

近頃はおたがい、月例ペースでお手紙を書いてきましたね。私やあなたが自然に記すようになった、冒頭の「時候のご挨拶」が、ほどよく春夏秋冬を追体験させてくれて、なかなか味わい深いです。

夏の暑さも冬の寒さも、毎年同じ事をくりかえしているはずなのだけれど、どのお手紙にもどことなく、その時だけの一回性みたいなものがまぎれこんでいるのがよいなあと思いました。

「ただの夏」も「ただの冬」も、それぞれ拡大してみれば、その年だけの夏であり、一度きりの冬であったのだと感じます。



――病理の話をしますが、

顕微鏡で細胞を見るときに、いったん拡大倍率を上げて観察してしまえば、ふたたびレンズの倍率を弱いものに戻しても、細かいところまでしっかり見えるようになる、という(その筋では)有名な現象があります。

これは、たとえばサッカー競技場で、最初にオペラグラスを使って選手の顔や背番号を確認しておくと、あとは肉眼で見ても、選手の居場所や表情などがだいたいわかる、という現象と似ていると思います。

ひとたび解像度を上げて確認しておけば、あとは「引き」で見ても伝わる。人間の脳はよくできていますね――



私はお手紙を書くようになってから、かつてよりも時候のうつろいを感じ取れるようになりました。これまでは記憶の果てに埋没させてしまっていたような、日々の「わずかな差異と一回性」に、気持ちが向くようになったと思います。

おそらく、お手紙を書くという行為のなかに、日頃の暮らしをより解像度高く見るという要件が含まれているのでしょう。

ただ、その気持ちの向き方は、どうやら、キーボードを前にしてお手紙を書いているときだけには留まらないようです。

お手紙を書いていないとき……感受のレンズを弱拡大にしてぼんやり暮らしているときにも、季節や出来事や人とのやりとりなどの細部を、これまでより丁寧に探っている気がします。

「今は、後から振り返ると大事な瞬間なのかもしれない」みたいなことを、前よりすこし鋭敏に受け取れるようになりました。

あなたにもそういうことはありませんか。



"比較する"の言葉・行為には,どことなくネガティブな印象を抱きがちでしたが,実は

「あなたと わたしは いっしょだね」

という前提があると知ったいま,イメージが綺麗に反転しています。

そして,AとBが同一であると認めたうえで

「でも すこし ちがうね」
「どこが どう ちがうだろう」

そうして"違い"を検討する行為が"比較"であるとするならば,わたしたち生き物の根底にある"好奇心"の根っこが,そこに垣間見える気がしませんか。

違い探しの出発点/西野マドカ


他者とみずからとを「比較」する。
あるいは、自分の中で、過去のある点と別の点とを「比較」する。

一見、違い探しと思われがちな「比較」というムーブに対し、

 com-pare:  一緒に-対等にする

を思い浮かべて、比べるのは「まずは同一であること」を了解した後のことだと看破した、あなたからのお手紙。

とてもすばらしかったです。



――臨床医の見立てと病理診断とを比較して検討する試みのことを、comparative pathology(比較病理学)と呼ぶことがあります。Compareですね。

一方で私はこれまで、同じ試みに対してclinico-pathological correlation(臨床病理相関)という言葉を用いてきました。

せっかくなので、あなたと同じことをしてみましょう。Correlationの語源を調べてみます。

 correlation: cor-(一緒に) relation(関係)

Relationはさらに分解できそうです。

 relation: re-(戻って) latus(持ってきた)
 持って戻ること の意

なるほど、つまり、correlationとは、「持って-戻って-一緒にする」という意味になるわけです。

Clinico-pathological correlationは、元は同じ場所で学んだ臨床医や病理医たちが、それぞれの専門的な技術を用いて、各個に思索を深めてから、得たものを「持ち帰って一緒にして」、考えるということ――



さきほど引用した、あなたのお手紙の中に、「好奇心」という言葉が出てきました。

私はかねがね、好奇心という感情にはどこかうっすらと愛着のようなものをまとうことがあるなあと思っていたのです。

新しいものに興味を示す「好奇心」に、どうして使い慣れた道具や通い慣れた道に感じるような「愛着」が混じり込むのか?

これまでは、よくわからず、ノイズやエラーの類いなのか、あるいは関連痛のような「混線」によるものなのかと訝しんでいました。

でも、今なら少しわかります。

自らとの差異を見つけて喜ぶ好奇心の基底部には、「私と同じだ」を確認したときにわきあがる愛着が、progenitor cell(前駆細胞)として眠っているのではなかろうか。

それが、あなたの書いてくださった、

AとBが同一であると認めたうえで

「でも すこし ちがうね」
「どこが どう ちがうだろう」

そうして"違い"を検討する行為が"比較"

ということと対応するのではなかろうか。




もとは同じものを、違うやりかたで書き記す。

それらを持ち寄って一緒にする。交互に配置して見比べる。

共通点と違いとを見比べる。

愛着から分化した好奇心がはしゃぐ。安心しながら、沸き立つ。居心地よく感じながら、新しいところに向かって駆け出していく。

そうやって、少しずつまた、互いに遠くに向かって歩く。

「文通」というものから得る感情の因数分解に、私はようやく成功したのかもしれません。


(2023.10.6 市原→西野)




※私たちのやりとりを見てくださっている皆様へ

本来、文通には「終わり」というものはありません。返事が来ない時期があったとしても、「いずれ返事が来るかもしれない」という状態であって、やりとりが終わったとは思わないはずです。

私と西野マドカもまた、これからもやりとりを続けていくことは間違いありません。ただ、noteのマガジンというかたちで往復書簡を続けること4年間、そろそろ一段落させてもいいかな、ということを思いました。

二人のやりとりを他者の前に開くことでうまれた、思いもよらない発想、展開に心から感謝しています。

あと一往復で、この企画をいったんおひらきにしたいと思います。

長年読んでいただき、ありがとうございました。あと少しだけお付き合いください。

これまでのやりとりの大半は変わらずnoteで読むことができます。いつまでも無料です。

同人誌「ココロギミック」の巻末には、2022年春までのやりとりすべてが収録されています。

文字めっちゃ小さいですが、ご興味があれば。