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まなざさない目線

にしのし

北海道に桜前線がやってきました。めちゃくちゃ早いです。4月11日に松前の桜が開花するというのは観測史上初。ふだんあのあたりはゴールデンウィークころに満開になるんですよ。

札幌も大型連休前に桜が咲きそうです。平均して気温の高い毎日。花粉と黄砂にむずむずする毎日。近頃は目がかゆく、また、目が悪くなりました。何をのぞきこむにしても、目つきが悪くなりがちである。


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消灯時間を過ぎても一向にやってくる気配のない睡魔を待ちながら,ぼんやりと連想が進むままに放置していると
『そんな目でわたしをみないで』
という,何かの(もしかすると複数の)作品で出会った切実なセリフに至ります。

You are (still) here/西野マドカ


眼差しについて。

あるいは、「眼差すこと」や「眼差されること」について。

差すは刺すに通じる。刺すような目線という言葉もある。だから眼差しというのは語感の中にわずかに傷害性を含んでいる。

見るというのはごく軽度の暴力だ。

あと、これは偶然かもしれないけれど、「まなざす」と入力するとATOKは「真名指す」という変換を返す。名前を直接示すこともまた、国にもよるがどことなく「忌み」の雰囲気をまとっているように思う。


だから、あなたもふんわりと考えていたように、「まなざさないでいる」というタイプのケアはありえると思う。




ところで、医療従事者でいうと、看護師の眼差しはきわだって独特だ。
医師が患者の「疾病」を見るときの、値踏みするような目線とはだいぶ異なる。

医師は峻別する。専門性を外挿した目で、差したり射したり刺したりする。

一方、看護師たちの仕事は違う。患者を必ずしも分類しない。診断名によって切り分けずに患者そのものと付き合う。

それはつまり患者をあまり見ないということか? そうではない。

「今ここ」の患者が、数日前、数時間前、数分前、数秒前と比べて、どう違うか、すなわち変化を捉える。こぼれたものを拾う。欠けたものを埋める。そのための目。

医師は患者の内奥をまなざす。
看護師は患者の時間的・空間的な縁辺をまなざす。

看護師のやりかたはしばしば、「目配り」と呼ばれる。差配、配達、心配。


ときおり、医師の中にも偏屈なのがいて、あまり患者を真剣に見通そうとしないで、へりばかり見たり、遠い目で見たりしていることがある。そのとき患者が示した態度、とった行動、言ったことを、そのまま解釈するのではなく、患者がそれまで辿った歴史とブレンドして別の意味を見出したり、患者が何かを見ているときの「まなざしの性質」みたいなものをふまえて、患者の脳内で知らず知らずのうちに行われていた変換をもとに戻してみたりする。

患者の中心部分を無遠慮にまなざすのではなく、患者のキワで起こっている微細な変化に目配りをするタイプの診断というのがあると思う。

それが……気配りに満ちたまなざしというのとは、ちょっと違うような気もするけれど、なんというか、見るといっても、あるいは診るといっても、ずいぶんといろいろなやり方があるよなあ、ということは、よく考えている。


***


最近の私は、こう、病理診断をするにしてもですね、目つき悪く何かをみることのないようにしている感覚があるんですよね。細胞を怖がらせたくないというか。気遣ってるんですよ。細胞だってね、「そんなにじろじろ見ないで!」って思っているかもしれないでしょう? だから、瞳孔開いてカッとみるのではなしに、こう、面ごしに竹刀を構えて、剣先の触れあった先にいる相手の目線を直接みるのではなくね、相手よりさらに3メートルくらい奥のところにピントをあわせるような気分で、相手の全身を「みるともなくみる」という感覚でね、ぼんやり全体をつかむような感じで細胞を見るんですね。すると、違和のほうからぼくの心に飛び込んで来る、みたいなことがある。

……なーんてことを詐欺師の目で研修医に偉そうに語っています。ベテランがそれを見て笑う。


(2023.4.14 市原→西野)