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そもそもジョージじゃないんだな
にしのし
『文学を<凝視>する』は名著ですねえ……ただし、読むためには心に余裕が必要だなと思う。
本質(?)から少しだけ距離を取って、目の片隅に本質的な何かを写しながらも、「決定的には凝視しない」ままに、じっくりと輪郭をなぞって確かめていくような文体だなあと思っています。
そういう本を読むにあたり、自分に余裕がないときは、「早く核心に切り込んでくれ」という気持ちになりかねない……。
ぼくはたまに雑な本の読み方をしていることがある。
あ、あけましておめでとうございます。
ちょうど詩の話が出たので、正月に読んでいた本の話をします。J.L.ボルヘスの『詩という仕事について』を読みました。ぜんっぜん何言ってるかわからない。ボルヘスの本はこれで2冊目だったのですが、はじめて読んだ『七つの夜』もほとんどわからなかった。
わからなかった理由はぼくの実力不足かとは思いますが。たぶんほかにも、理由はある。
日本語に翻訳された時点で、おそらくボルヘスが語る際に意識していたであろう、さまざまなリズムや節回しが失われていると思います。「なぜその言葉のあとにその言葉を続けるのだろう?」という部分がたくさん出てくる。とまどい、引っかかり、かきまわされる。
それなのに。
2冊ともなぜか、読了後には、「いずれまた読もう」という気持ちにさせられてしまう。不思議なものです。
ボルヘスが有名だから、「わからないでいる自分が恥ずかしく、いつかわかるようになるはずだ」と信じて、かっこつけで読んだフリをしてしまうのだろうか。そういういやらしい推測も、できないわけではないですが。
翻訳という壁を乗り越えてもなお、「詩」がぼくに届くということが、あるのかもしれない。
千夜一夜物語が「thausand nights and a night」と書かれる理由のようなもの、イリアス/オデュッセイアの魅力、何度も何度も出てくる「グノーシス派」という意味すらわからない単語、トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス……。
歩いたことのないけもの道がそこにありました。
心の余裕のあるときにまた読み直そうと、本棚に刻印するように、2冊の文庫をしまいこみました。正月以上に心に余裕がある日があるのだろうか、と、少し首をひねりながら。
ぎりぎりわからない本を、ギリギリ苦しみながら読む、という至福。
目のいいうちに読んでおきたい本が山ほどある。
***
年末年始、テレビを付けっぱなしにしていると、全集中という単語と紅蓮華が、番組の筋とは関係なく登場する機会が非常に多く、
「ああ、これらを流すと、前後の流れを多少ぶった切っていても、視聴率が0.3%くらい上がるんだろうな」
と思った。
LiSAさんはノドがすごく強いね。多くの人の脳内に、「かすれもせず、音はずしもない、完璧な紅蓮華」を、何度も何度も叩き込んだ。一部の詩はノドを通ることで命を得るような気がする。
では、既にこの世にいないボルヘスが語る言葉は、ボルヘスのノドを通ることがなくなった詩の数々は、もはや命を失っているのか。
いやあ、どうかな。命って意外とちょろく顕現するんだ。コントロールはできないのだけれど。
そのことをぼくは、1000/530000くらいの確率で、体感する。
声がなくてもリズムが届く。それくらいの綾が、たまに見つかる。
聞いたことのない声を脳内に作り出す文字の並びがあると知る。
……『虐殺器官』(伊藤計劃)はいい本でした。ああいう夢を見ることが、たまにある。
(2021.1.8 市原→西野)