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山際の向こう、2秒の先に(10)

前回記事↓


たられば「なるほど、と思う。おもしろいなと思います。

飛鷹和尚、今の「医者側」のお話を伺って、どうですか?

「山の向こう」の領分として……。」


飛鷹全法和尚に画面が切り替わる。

ふと、

ああ特定の筋肉だけを使うことなく座っていらっしゃるなあ、と思った。


そういえば、和尚も和歌山からの遠隔中継だ。だから、スタジオの音声は遅れて届いているはずなのだけれど。

なぜか、彼の語り口には、時間のズレとかギャップと言ったものはあまり感じられない。

これがぼくにはひどく奇妙で、なにか、わくわくした。

現象に数メートルほど届かない後方、言語化がまだ追いつかない距離に黙って座っているぼくの深層心理が、このセッションをわくわくどきどきと眺めているのがわかった。



飛鷹和尚は、まず、ご自身が住職を務められる高野山高祖院という場所がやや特殊で、日頃はお葬式などをあまり行わない(つまり、具体的な死に日常的に接しているわけではない)と語られた。その上で。


飛鷹「仕事の特性として、何かをある程度ルーティン化してしまうことは、立ち止まって実存に立ち返る機会とは真逆のベクトルだと思うんですね。」
飛鷹「”ですから”、医者でもお坊さんでも、非常に忙しい中で立ち止まって「死そのもの」を見つめることは、よっぽど意識的にやらないと、見い出せないことなのかなという気がします。」


そうか。


飛鷹「逆に、僕からちょっと聞いてみたいことがあるんですけれども……。」

たられば「あ、ぜんぜんいいですよ!」


身構える。2秒を跳び越えてくる。


飛鷹「「死とは何か」とか、そこから翻って「命そのものとは何か」を考えることは、非常にやっぱり……大事であって。

私は学生時代に『医学概論』という本を読んだことがあります。「医学概論とは何か」を私が言うのもおこがましいんですけれども、そもそも「医療とは何なのか」っていう、医療そのものを問うているような、学です。

著者は澤瀉久敬(おもだかひさゆき)先生、ベルクソンを研究している人でもあったんですけれども、日本の医学概論の創始者でもあると言われている方です。

今、果たしてこういった医学概論みたいなものが、医者の世界ではどの程度学ばれているのかを、ちょっとお聞きしてみたいなと思っていました。」


たられば「なるほど。市原先生、どうですか」

ぼく「はい」

たられば「あなたは、」

ぼく「はい」

たられば「病気とは何か、というような本も書いているから……」

ぼく「はい、ありがとうございます」

たられば「医者は、医療とは何かということをどれくらい学ぶ……」

ぼく「はい」

たられば「のかということを、ぜひ、教えてください」

ぼく「はい、ありがとうございます」



2秒のズレであいづちが少しずつずれていく。

ぼくは2秒前のぼくをぼうっと見ている。

部屋の片隅にかけられた「おちつけ」の額。


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息を吸って二回、えーとですね……、という。

イヤホンから遅れて返ってくるぼくの声がさらに二回響く。

えーとですね……えーとですね、えーとですね……えーとですね、



「医学概論という同じ名前の講義
ぼくも受けました……」



しかしその学びは和尚のそれに遠く及ばない。

ぼくらは学んでいないのだ。学びきっていないのだ。実地で患者から学んでいく。現場で医療者同士で懊悩する。ただそればかりだ。それで十分だろうと言わんばかりに。

先達の考察を反復する機会などまずない。

ぼくらは学生時代から今に到るまで手技と論理と暗記に追われる。ベルクソンが苦々しく批判する等質空間にこそぼくらは安堵する。そこは「因果が一対一で成り立つ世界」。「AならばBと確定する世界」。

ズレとスキマとギャップがない(ままでいてほしい)世界。

人類が克服してきた病との歴史。その勝利の部分を基本的にぼくらは学ぶ。これが医術だ、これが医学だ、巨人の肩の上から世界を見渡そう。

そう習う。

わかりやすく線が引かれた塗り絵をパステルカラーで丁寧に塗ることで、ほんとうは点線だった部分もうやむやにしてしまう。画用紙の外は「わからない」、しかし中だけでやることがいっぱいある。



ぼくはようやく、わからないということがわかっただけ。

ズレとスキマとギャップの中にいる。




すると、

和尚がほほ笑むのだ。


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飛鷹「今日こうしたかたちで、医療の方々と、私たち宗教者、漫画を描かれてある種の芸術に携わる先生がいらっしゃる。おそらく、この場であれば、従来なかなか橋がかかっていなかった部分での対話が生まれたり、「きっかけ」として何かが始まればいいなと、すごく思っています。」



***



犬が、

「きっかけ」を継ぐ。

仕事としての死はみているけれど、「死そのもの」を見つめていることはあまりないと言った、医者と和尚の話を、継ぐ。


たられば「飛鷹和尚がおっしゃっていた、「仕事としてお経を読んだり、遺族と向き合ったりする」という話です。これはすごくよくわかります。

ぼくは、母が亡くなったときに、お坊さんにも葬儀屋さんにも、また緩和ケア医にもすごくお世話になったんです。みんな「仕事として」やってくれたんですよね。だから、それで遺族としては救われた。

なんだか「あぁ、この人たちにとっては仕事なんだ」「日常なんだ」と思いました。

もしプロの彼らが、ものすごく沈鬱な表情で「このたびは、すみませんでした」なんて言っていたら、引きずり込まれちゃったかもしれない。」



前縁の向こうのわからなさから、

領分の効能へと話を持っていったのか。

大型犬はやさしいなあ。



そこにおかざき真里先生が、満を持して、「剛速球」を投げ込んだ。



おかざき「僧侶様にいろいろなお話を伺っていると、私はいつも「わからない」「わからない」と言い続けているのですが……。(笑)

宗教者の方は「慈悲」という言葉をくださるんですけど、一般人の感覚として、その「慈悲」という言葉が因数分解できないんです。」

たられば「「慈悲」とは何か。」

おかざき「「慈悲」とは何か。でも「慈悲は慈悲です」と言われるんです。そこであまりにも「わからない」と言っていると、ある方から、「慈悲が成立しないことがある」と言われたんです。」

たられば「ふむ。ふむ。」

おかざき「お医者さんでも、あるいは宗教者の方でも、これはこういうことだ、という教えを一般の人間に授けてくださることがあります。でも、わたしたち受け手側の「受け皿」がないと受けとれないということが、実はとてもたくさんあるんじゃないかなと思っています。」

たられば「……コミュニケーションの話になってきましたね。」

おかざき「「慈悲の不成立」が起こっている時に、受け手として何があると受けやすくなるのかということを、発信者のお二人にちょっとお伺いしてみたいです。」


飛鷹和尚はここで、慈悲というのは密教においても非常にたいせつな言葉である、と前置きして

ある種のプロレスをはじめた

場の作法・ルールを守りつつ、相手の繰り出したワザを見栄え良く受けて、順番にワザを返していく。リアルな攻撃力だけではなく、展開や流れを魅せる格闘技のやりかたで、「慈悲」を語る。


飛鷹「自分の命が、個体を超えて先祖から代々つながれて、次につながっていく。そういう、命そのものの大きな根源性に気づくと、自分を超えた他者に対して。気持ちを向け直すことになる。その過程で、命においてつながっている他者に、「大悲」という絶対的な共感を持つということがあります。

密教で使う言葉です。大悲。「大悲」の「大」は、「比較や相対ではない」というニュアンスです。


(おかざき先生が言われたという)「慈悲が成立しない」とか、「こういう慈悲があればこういう効能があるだろう」というものは、ある種の相対的な関係性の中にあるわけですけれど、私たちが仏と呼ぶ存在の、本当の慈悲(的なもの)は、相対的なものを超えて絶対性を帯びている。

「慈悲が成立するか成立しないか」ということはもはや関係がなく。ただひたすら自分および、自分を包摂するすべての生きとし生けるものに対する共感、これを「大悲」というふうに観念するわけです。


うん、なるほどな、と思った。仏教っぽいな、と。

でもさあ人と人との関係はもうちょっと泥臭いしさあ、みんながみんな悟りに向かってがんばれるわけでもないしなあ。

医療の世界には空海ばかりがいるわけじゃないんだよなあ……。


ところが和尚のプロレスははじまったばかりだったのだ。

ここまでは言ってみれば、「力比べ」であり、「ロープに相手を振ってラリアット」(たいていのプロレスラーがやるやつ)である。

彼は「この先」につなげていく。


飛鷹「密教でいう、1つの、ある種の宗教性の目覚めから、自分を超えた命への気づき、他者性への共感、そして自らが道に入っていくという、大きな普遍的なプロセスを描き出す。

ですから、そういった観点から言うと。」
飛鷹「……一般の方だけが受け手じゃないんですね。」


たられば「あ なるほど」

おかざき「あ なるほど」


ぼく「あ なるほど」


ぼく「ああ、なるほど……?」


ぼく「あああああつながった、カンブリアナイトの新城さんの、”ものづくりでは受け手もとても大事” ってのと、いきなりつながった!」





飛鷹「おそらく、私やヤンデル先生が送り手で、おかざき先生が受け手という構図だけではなくて」


ぼく(和尚、今「ヤンデル先生」って言ってくれた///)


飛鷹「実はそこには非常に大きなダイナミズムがあります。

「臨床宗教」というテーマがありまして、「宗教者がいかに臨床の現場に入っていくのか」ということを考えるのですが、そこで宗教者がやることはもはや説法ではなくて、相手の人生の物語をいかに聞くか、ということ。

もはや我々僧侶が何かを与えるのではなく、我々自身がその人の生きた物語を与えられているとも言えるわけです。

ですから、そうやって与えて与えられる、1つの大きな円環的関係の中に、おそらく「慈悲」という運動があるんじゃないかと思います。」


ぼく(うわ……慈悲という1つの運動……)


飛鷹「すなわち「慈悲」というのは、ベクトルがAからBに行くというように、起点と終点があるものではなくて、ある種の止まらない1つの運動体と考えたらいいんじゃないかなと思いますね。

命そのものの動きに「慈悲」という1つの形容詞がついていると考えたらいいのかなと思います。」


ぼく(うおおおおお言いたいこといっぱいあるいっぱい出てきた、そうか、やさしい医療、わかりそうな気がする、これはすごい、さすが和尚、まじか、来た、このディスカッション最高かy


たられば「ヤンデル先生、今の話を受けて、20秒ぐらいで意見をお願いします(笑)。はい。もう、まとめろと言われています。」


ぼく「20・・・ウウッ・・・」




(2020.9.4 第10話・無印最終話)


(劇場版に続く)