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人間の物語の数を減らそうなんて傲慢だと思う


「月の模様」を、ウサギの餅つきに見立てることは有名である。

ただしこれは、日本での話。

世界各国では、違った見え方をしている。

よくまとめたウェブサイトを見つけたので以下に引用する。

月の模様は、場所によって様々です。

・餅をつくうさぎ(日本と韓国)
・薬草を挽くうさぎ(中国)…挽いているのは不老不死の薬
・ろば(南アメリカ)
・ワニ(南アメリカ・北アメリカインディアン・インド)
・ほえるライオン(アラビア)
・髪の長い女性(東ヨーロッパ・北アメリカ)
・ヒキガエルの頭と前足(中国)
・女性が編み物をしている姿(インドネシア)
・大きな木とその下で休む男の姿(ベトナム)
・悪行の報いとして幽閉された男の姿(オランダ)


リンク先には、画像による解説が載っている。文字で読むよりもずっとイメージしやすい。ぜひ一度読んでみて欲しい。

人の行動に例えたり、動物に例えたり。

シロクロを反転して判断している国もあったりしておもしろい。

「ウサギが餅つきをしている」という日本の解釈が、一番無理があるようにも見える(笑)。



今は月の模様の話をしたが、「人間模様」もたぶんこうなんだろうな、と突然思った。

試しに今、てきとうに、架空の人間に起こったできごとを書いてみる。


・70代後半。

・健康診断で便に血が混じっていると言われた。

・2か月後、近所のクリニックで大腸カメラを受けた。

・大腸がんが見つかった。いわゆる進行がんであるという。


これを目にした人は、それぞれ、様々に解釈をするだろう。


・健康診断から大腸カメラの間になぜ2か月も間をあけてしまったんだ。もったいない。さっさと病院にかかればよかったのに。

・毎年健康診断をしていたらふせげたかもしれないのに。

・大腸がんがいわゆる進行がんで見つかったのなら、がんと戦ってはいけない。近藤誠医師がそのように言っていた。どうせ何をやっても無駄、全身にちらばるタイプのがんなら治療をしても死ぬし、がんもどきであれば治療をしなくても助かる。いずれにせよ、副作用が出る分、治療をしないほうがマシだ。

・標準治療をすべきだ、そうすれば、統計学的にいちばんいい結果が見込める。少なくとも、これまでの科学が積み上げてきたエビデンスによって、統計学的にもっとも良好な結果にたどりつきやすいのは標準治療である。


これらはいずれも「解釈」だということに注意してほしい。いずれも、過去への後悔や未来予測であって、確定した現在のできごとだけを語っているわけではない。全部、ifとwillの話だ。

月の模様が一種類しかないのに、その解釈が国によって異なることを連想する。事実としてはひとつなのだけれど、それをどう読んでどう考えるかに差が現れているということ。


すなわち、「あてはめた物語の違い」。


どの物語に憤慨し、どの物語に自分の人生の解釈をゆだねるか。

どれが「一番いい」かを決めるのは、本人である。実はここに絶対的な価値観が存在するわけではない。正義と悪があるわけでもない。



ぼくは、自分が経験したできごとをサイエンスという物語にあてはめて解釈することで安心するタイプの人間だ。だから近藤誠の物語はポンコツだと思うし、標準治療を強く勧める側にいる。

一方、「標準治療」という物語が自分を納得させるとは思えない人もいる。




ときに、思う。

「ニセ医学にダマされて命を縮めてしまった人たちのことを思うとかわいそうでしょうがない」。

ただし、ぼくから見てかわいそうであった人が、死の床にあってもなお、

「私は標準治療をしないことで太く短く生きた! 満足だ!

と言っているケースも、実は、ある。物語同士の良悪を決めるというのは、本当に難しい。というかできない。



月にワニを見出す人に、「あれはどう見てもウサギではないか」と、説得して考え方を変えさせられるものだろうか?



***


「人それぞれの物語を相対化すると、互いに手出しできなくなる」というだけの、ニヒルな理屈。

どうもこれで終えてしまっては心の居心地が悪い。

もう少し深く潜ってみたほうがいいように感じる。




世の中で生きて暮らしていく人々の中には、物語をスキップしたり、ジャンプしたりする人がいる。

人が、人生でひとつの物語を延々と再生し続けていくというのは勘違いだ。実際には途中で物語に飽きることがある。ギモンを持つことがある。自分には合わないなと放り投げることがある。

YouTubeの動画を途中でやめて次の動画を見に行くように。

ぼくらは物語を渡り歩く

自分に合った物語を探してうろうろする。


以下、完全に私見だが、

人は、自分の身を委ねている物語を変更するときに、後悔をする

がんを放置すべしと言われた人が、大きくなったがんによる症状を経験し、不安になって、物語を変更する

そこでサイエンスに頼っておけばよかったと後悔をする

医者が口をすっぱくして標準治療を選べというのは、「他の物語をあきらめて後からこちらにやってきた人たちの後悔する姿をたくさん見る」からだ。

そんなものをいっぱい見た医者が、「標準治療外」の物語を、冷静にみられるわけがない。

「あんな物語を信じていなければ、後悔しなかったのに」



ひとつの物語は、ほかの物語で後悔した人の受け皿になる

そして。

残酷なことを言うけれど、当然、逆のパターンもある。

標準治療の甲斐なく、がんが大きくなった人は何を思う?

サイエンスという物語に自分をゆだねたのにだめだった、と後悔し、物語を変えようと試みるだろう。

そこで、標準治療外の代替療法を受ける



物語どうしが真っ向勝負して、一時的に、勝った・負けたとやっている。でも、どちらの物語を選んでも、変更があり得る。そこには後悔がある。そういうものなのだと思う。


では、どうしたらよいか?




ニセ医学に後悔して標準治療に戻ってきた人々の悲惨な姿を目にした医者は、ニセ医学への憎悪を高まらせ、標準治療以外の物語を廃絶すべく取り締まりを強化すべきだと訴えることがある(インターネットで元気な医者の過半はこうである)。

しかしぼくは、「人間が複数の物語を見比べながら歩いて行こうとする本能」に対し、片方の物語を消せばいいと唱えることは、らんぼうな理想論に思えてならない。

やれればいいが、やれるとは思えない。

物語は渡り歩くものだからだ。人生を一本道にされると、多くの人間は拒否感を覚える。また、後悔に対する逃げ道をなくすことも危険ではないかと思う。



では、どうする?




「月の模様の見え方にも、ところが変わればこれだけバリエーションがあるんだよ」ということをまずは呑む。


その上で、物語を渡り歩く人間が「いつでもサイエンスという物語に大きな安心を得られるように、物語の居心地の良さを整備しておく」。


ぼくらにやれることは実際、そこまでではないのか。



誰もが心の中に複数の物語を走らせている。



片方の道をつぶして選択肢を無くする、すなわちある一つの物語しか選べなくすることによって、世界を統計学的によくしようなんて、傲慢だと思う。


叩くくらいなら最高のストーリーテラーになる。

潰しにいくくらいならどこまでも声を響かせるナレーターになる。

物語には多様性があり、強さがあり、ほかの物語がダメだった人にとっての受け皿としての性格がある。

物語を画一化しようなんていう試み自体が間違っている。それが成功したエビデンスは過去にない


以上のことを一気に書き上げて読んでいる最中、ずっと胃がしくしく痛い。

おそらく強烈なストレスがかかっている。

本当はぶっ潰したい物語がいっぱいある。それをぼくの内臓はよく知っている。

「ニセ医学をぶっ潰したい」という物語に沿ってひそかに歩んでいた自分の人生を後悔しながら、よりよい物語を探している。

生老病死はすべて「物語の変更」によって人間に後悔という名のストレスをかける。


よりよい物語を探す過程そのものがストレスなのだろう。この痛みを知った上でなお、自分の信じる物語の良さを、推しを愛でるようにナレーションしつづけるということ。