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周りから歌が聞こえてくる展開

モブ野さん:

「聖闘士星矢の話はもういい」と言われたので、手紙の書き出しを星矢にするのそろそろやめようかな、と思っていたら、前回いただいたお手紙のタイトルが『コナン感』あふれていたので、そうか、次はそっちか、と思いました。ようーし灰原トークだな。

えっ、もういい?

余計、魔窟だ? 聖闘士星矢よりコナンくんのほうが単行本の数が多い?

コナンというとまず灰原ってところ、おめでてぇな?

いろいろと非難の声が聞こえる。

ま、でも、マンガの話からはじめると、食いつきがいいんだよな、だから自然とやってしまう。きっと次回もまた冒頭はマンガトークになるだろう。悲しい性(さが)です。


・・・


ぼくは日頃、「読み手が食いつくように」、「いいね(スキ)が少しでも多くつくように」、どれくらい文章をいじっているんだろう。

ライトな書き出し、物珍しい比喩、なれなれしくも堅苦しくもないタメ口のバランス。これらは結局、技法だ。

読む人のためにリーダビリティを上げていこうというのは、ものを書く人ならば常に考えておかなければいけない。意図的に、論理的に、計画的に、「キャッチーさ」「わかりやすさ」「持って帰りやすさ」を忍び込ませる。

でもこういうのって、商売とか、公共の福祉目的にやるんならまだしも、ごく私的な「手紙」のやりとりでもやるべきことなんだろうか。

最近のぼくは、表現に対してどこかしゃちほこばりながら、文章を作っている。たぶん仕事のEメールひとつとってもそうだ。


そんなことを薄々感じ始めていた矢先に、あなたから届いたこれは、さくっと心に刺さった。

上手な例え話って,受け取る側からしても実に便利で素晴らしいツールだと思うんですけど,受け取った瞬間,大きな感嘆の声に混じって,かすかに,本当にかすかに,舌打ちが聞こえる気がするのって,どうしてなんでしょうね。

ぼくは、たぶん、小さく舌打ちをされる方の人間になっている。



「読者のためにと思って、書き加える表現」が多くなりすぎると、書くものがだんだん似通ってくるということにも、気づいてはいた。

誰かに振ってもらったお題を選んで、そこに自分の技術を注ぎこんで「読めるもの」に仕立てる腕が、少しずつ上がっている。文章が完成するまでのスピードが少しずつ早くなり、テイクホームメッセージは明確になり、それが確かにぼくの書いたものであるという書き手の個性もきちんと浮き上がってくるようになっている。

でも、できあがったものはどれも、似通っている。

例え話。対比。視点の変化。コンテンツの選び方。コンテキストの磨き方。

医療情報だとか、科学知識だとか、そういうのを伝える上で、ある程度「王道」みたいなやり方があることはわかっている。だから似るのはしょうがないのかもしれない。

それでも、なんだか。

やはりどこかで舌打ちされている気がする。

ぼく個人が舌打ちされることはしょうがない。しかし、舌打ちされるような医療者がものを書くというのは、公共の利益を損なっている気がする。……損なうというと大げさだろうか? 公共の利益をプチ損なっている気がする。

……まさにこういうとき、たぶん、舌打ちされている。


・・・


人間同士のやりとりは本来、「不完全な感情同士で不全に決着すること」のほうが多い。たとえば死を巡るできごとなんて、納得の末に大団円することの方が少ない。

生と死を語る上で、技法によって見やすく、伝わりやすく、納得しやすいタイプの文章を用意し、軽妙な例え話を織り交ぜながら、「こういう構造ですよね」と言うことは、つまるところ、舌打ちのタネなのではないか。


生命倫理や哲学に関する議論で、しばしば、論争相手を叩くために

「本来であれば読んで考えておかなければいけないことを読んでいないから」

「このような可能性について想定・考慮していないから」

といった、相手の思考の不完全性を攻撃する論調をみることがある。

しかし、たとえば死とは、「思索が不十分であればあるほど恐ろしい」ものだろうか。病とは、「知らなければ知らないほど苦しむ」ものだろうか。

たぶん、そうではない。生老病死については誰もが未踏であり、正解はなく、全貌は見えない。それをわかった上で著され、人々の心に届くものとは、乱暴な言い方をするならば、「完全であるわけがない」。不完全なものどうしが、お前はそこまでしか歩いていないが俺はここまで歩いているなんて、五十歩百歩でしかない。



生き死にを語ろうというとき、技法によって見栄え良くなり、「璧」のように整ったタイプの文章に、どれだけの役割が与えられるのだろう。




セラピーとケアの違い、寄り添うということ、ただ居るだけの効用。そういったことが書かれた本を猛然と読み進めていくうち、ぼくは自分の書くものをもう少し意図的に分析して、構造を解体して、ターゲットことに書き分けてみるべきかな、と感じた。この時点でぼくは、もうちょっと何か「やり方」があるんじゃないかな、というところまでは、「たどり着いた」のだ。

だからまずは書く機会と場所を増やし、文章のパターンを増やすための努力をはじめようと思った。

そうしたら、

「こうすべきだった とか こうすればいい なんて 分析したりしないよ」

という歌が届いた。その歌はとても美しく、ピアノはキュンキュンと跳ね回っていた。そしてぼくは、文字通り、頭を抱えてしまった。

(2019.9.17 四面楚歌ボーイ→十面埋伏ガール)