DONUTSの穴
にしのし
そう、北海道の30度は湿度が低いのです。
だからきもちいいよ。
カンカンに暑くなった日のゆうぐれ、まだ路面から暑さが伝わってくるような時間に、ベランダに出てビールを開けて、一本飲んでいる最中にもう、腰の辺りを水色の風がすうっと通り過ぎて、体の余熱がどんどん去っていく感じ。
北海道の夏がいちばんスキです。
どれだけ冬がきつくても、短い夏さえあればずっとここで生きていける……。
そういえば、北海道の冬がきついというのは、本当だろうか。
基準を東京に置いて? まあ、そこが基準なら、そうかもしれないね。
積雪量とか、北風の強さとか、インフラのやられかたなどをみていると、どうも、北海道より一部の東北のほうがよっぽど冬も厳しいのではないかと思うことがあります。
たぶん本当は、北海道は言うほど極端な地域ではないんですよ。「北国」として方位がそのまま代名詞になっているから、なんとなく我々も、強いアイデンティティを感じてしまうのだけれど。しょせんは、極北と赤道の中間のいち地域に過ぎなくて。親潮やら季節風やら山脈やらとの関係で、東北の方がよっぽど寒い日も多々あって。
今のも「中庸」の話? あるいは「基準」の話?
***
「基準」と「中間」について。
たとえば、色相環。
色相環の「中間」はどこかな。
……ないね。
二点の基準を設けてはじめて見えてくるものだ。
たとえば、「赤と緑の間」のように。
でも、実は、基準として設定するのが二点だけだと、足りない。
「赤と緑の中間」には、二通りの答えがありうる。確定しない。
黄色。あるいは、青紫。
……あるいはドーナッツの穴のところ? しまった、三つだった。
いずれにしても、基準を一つ、二つ決めたところで、中間がうまく決まらないということがある。ぼくはこのことに、とても興味がある。
「基準を決めなさい」という言葉。実はすごく奥が深いと感じる。
事象が輪を描いて分布しているとき、そのままでは「中間」というもの自体が定義できない。「基準」がなければ、「ちょうどいいところ」も決められない。
「何かを基準にして決めようよ」という言葉。
Standardや、controlを、ピンを打つようにスックとひとつ立てるイメージで、いったん納得しようとする。
でもそれはきっと、「基準の決め方」のひとつではあるけれど、全てではない。
「二点を決めて、その上で、黄色側の中間を探ろう。」
「いや、青紫側にしよう」
たとえばこのように、「二点を決めた後、覚悟してどちらかに偏ること」が、中間を決める直前に決定的な仕事をしていたりする。
バランスをとる直前に偏るということ。
自転車の補助輪のどちらかに体重をかけるということ。
***
先日、Zoomで、「超拡大内視鏡」の研究会に参加した。
その名の通り、超がつくくらい拡大できる内視鏡がある。カメラを消化管の粘膜に近づけて、光学+電子の力でがんがん拡大すると、なんと細胞1個のレベルまで観察することができるのだ。
これでとうとう、病理検査を出さずとも、内視鏡医が自分たちの力で、病変の細胞を評価することができる! 多くの人がいろめきたった。
ただし。
いくらカメラの精度を高めて解像度を上げても、細胞ひとつひとつの構造をそのまま認識できるわけではない。「染め物」をする必要がある。
病理医がプレパラートをみるときに、ヘマトキシリン・エオジンのような複数の染色液を用いて、細胞内のアレコレを染め分けるように。
内視鏡医も細胞をなんらかの手段で染める必要がある。クリスタルバイオレットだとか、メチレンブルーだとか、さまざまな色素を粘膜に直接振りかける。
その結果、超拡大内視鏡の画面に見えてくるものは、「いかにも細胞核」。やったぜ、あらためて内視鏡医たちは感動、興奮した。
「おお! やっぱこれ細胞核見えてんじゃん!」
でも、ある冷静な内視鏡医は言った。
「ほんとかなあ。比べてみようよ。もっと真剣に。病理医が見ている像と、我々内視鏡医が見ている像、完全には対応していないように見えるよ。」
なるほどなあ。たしかに、粘膜を上から「超拡大」して見た細胞核の配列と、病理医が粘膜の断面を「超拡大」して見た細胞核とでは、方向(軸)が違うというのもあるが、なんというか……ニュアンスが少し違う気がした。
そもそも、染めている染色が微妙に違うので、同じモノが染まっているという保証はないのである。
さすがだ。冷静な内視鏡医は偉いなあ。
さっそく、ぼくはこう発言した。
「では、何が見えているかをきっちりと調べ直しましょうか。
まずぼくは、この内視鏡の画面に映っている腺管らしきもののサイズを測って、そこから次に、核だと思われているもののサイズも測って、両者の比をとってみます。
そして、おなじことを、病理のプレパラート上でもやってみましょう。
内視鏡と病理、それぞれで構造の比を割りだして比べれば、同じモノを見ているかどうかがなんとなくわかると思いますよ。」
まあ隙の無い発言ではあろう。長さを測って比を取って比べるということ。
当然、その場にいた全員が納得するだろうと思った。
すると、先ほどの冷静な内視鏡医が、ぼそっと、こう言ったのだ。
「うーーん……もうちょっと大まかでもいいかもなあ。
ちまちまと測定して比べてもどうせ誤差はあるでしょう? ミクロの世界なんだし。
だったら、なんだろうな、もっとテクスチャそのものを、直感的に比べてもいいんじゃないかなあ。
我々の目、我々の脳って、膨大な情報を無意識に処理して、これとこれは似ている、これとこれは違うってのをはじき出すでしょう。人と猿がみわけられる、みたいにさ。
ああいうかんじで、『この内視鏡像と病理像は似ている』『こっちは似ていない』くらいからはじめても、いいんだと思うよ」
急に話が雑になった気がした。ぼくは反論した。
「科学的なことを言おうとするなら、測定して検証しておいたほうが厳密じゃないですかねえ。」
すると彼は画面に向かってまっすぐ言った。
「基準を絞りすぎると、その基準でしか評価できなくなっちゃうかもしれないよ。こんなに新しいジャンルで、こんなに新しい映像をぼくらは今こうしてみんなで見ているんだから、そのこと全体を大事にして……もっと、”捨てずに”、全体を見てみたほうがいいんじゃないか。」
***
ぼくは。件の内視鏡医がやっていたことは、言ってみれば、「基準を打たずに中庸を探ること」だったのではないかと感じる。
それはもしかすると、厳密には科学的態度とは呼べないのかもしれない。特に、演繹によって必然的に導かれるタイプの、再現性が求められるタイプの科学において、測定もなしに直感だけで評価を行おうというのは、あまり許容されない態度のように感じる。
けれども……科学はいつも測定と証明だけでつくられるわけではない。
証明する前に、測定する前の段階で、「ぼくらはいったい何を見ているのだろう。そこにはどんな法則があるんだろう」と頭をひねるシーンがある。
この段階にもおそらく「科学的態度」は存在するのだ。それはおそらく、基準を打って中間を探るタイプのattitudeではない……。
ぼくは、内視鏡医の前で、新しい超拡大内視鏡画像を解析するにあたり、「長さ」という基準によりかかろうとした。
色相環の一方の弧に着目して、緑と赤の中間が黄色だと言おうとすることに似ていた。
ぼくは何も間違っていなかったろう。
基準が決まれば答えが決まる。それは科学的だ。
けれどもその内視鏡医はきっと、色相環の全体を見てみたかったのではないだろうか。
できればドーナッツの穴の部分に立ちたいと思っていたのではないか。
(この楽器の数でこの音が出る理由が未だにわからない、ロックシーン最高の名曲のひとつだと思います。特に2分過ぎからの展開が驚愕)
(2020.6.18 市原→西野)