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フォロワーはホラーがお好き

にしのし


“その古典は 危険だ” と私の第六感が告げているので


ぼくのセブンセンシズも告げています。


……このブログ、たまに聖闘士星矢に回帰することがあるので気を付けて欲しいです。聖闘士星矢は今からでもseventh senseに名称変更しないんだろうか……。

それはそれでファンが怒るか……。


***


「理解し難い,とある現象」に名前をつけ,「何某とかいう,これこれこのようなモノ」として一つの定型を与え,理解可能な形にし,たとえば村人同士で「何某という,オソロシイもの」の怖がり方を共有して,腹に収める……。「考えすぎる人」は,このように機能した人でもあっただろうか……というようなことを,ふわふわと考えていました。


ああ、言葉の選び方がいいですね……。

そして、あえて「誤引用」をします。具体的には「腹に収める」の部分。

西野さんは「村人たちが、みな腹オチする」というニュアンスで「怖がり方を共有して、腹に収める」という言葉を使われたのかも知れませんが、ちょっとここで思考がスパークしたので、別の方に考えを伸ばします。


「考えすぎる人」はたいてい、自分の思考の中から、他人にも解釈できそうないわゆる「最大公約数」の部分をさっさと出力して、あとは「腹に収める(しまいこんでしまう)」と思うんですよ。


最大公約数の部分を出力するときに、他人(村人達)の直感にひびくような言葉を選ぶと、周りの人はすごく納得すると思います。

「なるほど、このふしぎは、モノノケのせいなのか!」

「オソロシイもののせいだったんだな、納得した!」

「あんた、よく考えてるな……」


でも村人達が恐怖や畏怖の感情をひとつの定型で解釈しているとき、長老タイプの「考えすぎる人」は本当に、「妖怪」という解釈に十全の納得をしているのでしょうか?


「ああは言ったけど、みんなは納得したけど、でも……」

と、恐怖度の増したモヤモヤをひとりで引き受ける人こそが、ぼくの考える「考えすぎる人」のイメージなんですよね。



***



もともと、理解し難い現象や、ことばにできないモヤモヤを、実際に言葉にすることは、かなり重要な「芸」だったと思う。文芸というのもそうだし、芸術だってそう。哲学の一部は哲芸と呼んだらいいんじゃないかなと思うこともある。有名な哲学者ってみんな命名が上手で、ぼくでも聞いたことあるフレーズをホイホイ発明している。……逆か、命名が上手だった哲学者の思考しか(ぼくは)なぞれないのかもなあ。

ぼくのような市井の民は、自分の心にうかんだ無形の違和を説明する言葉を、自分の脳の引きだしの中には見つけられないわけで。

「芸として先に解釈を用意してくれた人」のおかげで、ぼくはモヤモヤを解釈してもらい、喜ぶことになる。

でもほんとうは、その人が残した言葉とは別に、その人がこねくりまわしていた思考はもっと複雑で、もっと混乱していて、もっとスジが通っていなかったのではないかな、ということを、たまに思う。

その思考までをも見てみたい、という気が、たまにする。




映画や本にたまに見かける、「泣ける!」みたいな短いフレーズ。ああいうのは、最大公約数ではなく、単なる公約数だ。ぼくの感情の中でうまく言語化していない部分を「代弁してくれる」部品として、「泣ける」では少々、小さい。だからぼくは「泣ける!」作品を、あまり見ない。


ここまで、ホラーを見ないできたのも、あるいは、「怖いよ」という惹句に「雑な公約数感覚」を持ってしまったからかも知れない。でも「怖い!」と書かれたホラー映画というのはないわけで(あることもあるが)、ぼくはちょっと、ホラーに対してはまだ踏み込みが甘い気もする。


ホラーが好きな人というのは、ホラー映画が隠し持つ「ここまでなら誰もが喜ぶ、最大公約数的な魅力」を的確に説明する言葉をもっている。そういうのを何度か聞いたことがあるし、読んだこともある。そのたびに、

「あーホラー映画見てみてぇなあー」

という気持ちになる。



それでもホラーを見ないでここまで来た理由ですか?

くらやみでびっくりさせられるのがおっかないからですね。

なんでわざわざこわいものを見なければならんのだ。



(2020.10.18 市原→西野)