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千日手

西野サン

そういえば「歴代編集者」がまた一人増えました。今度の方と作る本が出るのはたぶん4,5年後になります。でも10年かかるかもしれない。

あなたには昔、「いつか○○な本を作ったらいいと思います」的なことを言われました。なんとなく、数年後に出せるかもしれないこの本が、あなたをはじめ多くの方々が控えめにぼくに提案してきた本と同じ方向を向いているように思います。

もっとも、これが「正解」かどうかはわかりません。けれども、この世界における「解」は、どうやら一本道で達成できるような類いのものではなく、クエスチョン・アンサー型でもたらされるものでもない。

それはきっと合戦図とか将棋盤をみて、「あっこっちが勝つな」と思うくらいにフクザツな、なかなか言語化しがたい、総体での「解」なんだと思います。次に出す本はキングダムにおける飛信隊、あるいは中盤での手持ちの金、くらいの役割を果たすでしょう。

うまく完成すれば。

・・・

思考放棄と思考保留の話をもうすこし。

例えば以下のようなセリフのことを考える。これらはもはや確立された類型で、本当に、しょっちゅう耳にする。たいていはポジティブな意味を含む。飽きもせず乱用される。

・そうやってうじうじ悩んでいてもしょうがない

・考えていたってはじまらない、行動しなければ意味がない

・結局未来のことはわからないのだから思考しても無駄だ

これらを思考放棄とか思考保留と呼ぶか、という話。

もしかするとこれらは、思考を放棄しているわけでも、保留しているわけでもないのかもなくて、空洞化した思考そのものなのかもなあ、ということを思った。

「考える事をあきらめてとりあえず行動する」とぼくらが呼んでいる行動もまた、思考そのものなのではないか。



将棋の最中に、金で王手をかけられたら、その金を何かで取る。それしかない。金は王と接しているから、王との間に何かのコマを挟んでブロックすることはできない。とにかく金を取りにいけるような周りのコマをさっと見渡して、桂馬か、飛車か、それはわからないけれど、とにかく取る。

これはアウトプットの最善手が少ない時の「思考」に似ていると思う。もっとも「どの駒で取るか」に選択が発生するのだが。


これに対して、将棋の序盤で何をどう動かすかについては自由度が高い。端の歩を進めるか、王を銀で囲うか、飛車を振るか、角道を空けるか、銀を直進させるか……。

相手がこの先どう動くのかを予測しながらも、流動する場面に合わせてどこからでも対処できるように、じっくりとアウトプットの手段を選ぶ。


この二つの局面のうち、前者はぱっと見、「とりあえず動く」で、後者はなんとなく、「じっくり考える」だ。

では前者が「思考放棄」で後者だけが「思考」であると言えるだろうか。

どちらも将棋。どちらも対局は続いている。

だからどちらも思考だと思う。選択の余地があるかないか、本人の性格、時間制限など、さまざまな制約がそこを修飾しているけれど。


では思考放棄、あるいは思考保留というのは、将棋で例えるならばどういうことか?

将棋盤をひっくり返して時計係を人質にとるのが思考放棄かな。

封じ手を記して会場を辞して宿でご飯を食べて寝るのが思考保留だろう。


「とりあえず検査してみる→結果がでてから考える」のは思考保留だと思う。

「リスクが怖い→手術うけるのやめます」これは思考放棄ではなく、「そういう将棋指しだった」ということなのかなあ、と思う。いい意味でも悪い意味でもない。


Airheadの俳優が、1秒将棋の使い手なのか、単に将棋ができないタイプの人なのかはぼくにはわからない。

けれども振って鳴るならば、おっしゃるとおりで、そこには思考がある。音が鳴る鈴の中には必ず何かが入っている。揶揄できるほど単純ではない。

駒の音さえ響かせれば、誰が何と言おうとそれは将棋。

長考が許される対局なのかどうかは、その大会のレギュレーション次第でもあるし、将棋指しのキャラクタにもよるのだろうけれど……。

(2019.11.28 市原→西野)