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テレビよりスタバのほうがうるさいかどうかの話

にしのし

おそまきながら、本年もよろしくお願いします。

年末にほど近い時期に、親戚に感染者が出たため、集まるのはやめにして、微風おだやかな数日間を過ごしておりました。基本、テレビつけっぱで。

新年の番組で覚えているものはほとんどありませんが、テレビがついていたなあ、という印象だけはわりといい感じで残っています。ああ、駅伝は見るともなしに全部見たかも。


***


私はテレビをよく見る。テレビっ子だ。
見るというか、ついている状態にしておく。
晩ご飯を食べている間、そのあと寝るまでずっと。
おもしろい番組がやっているかどうかは、あまり関係がない。
つまらないなと思っても、つまらない番組をつけたままにしておく。
そもそもチャンネルを選ぶ権利を私は放棄していて、誰かがこれでいいかなと思った番組ならどんなものでもかまわず見る。
「どうしても見たい番組」があっても、TverとかNHK+などであとから視聴できるので、リアルタイムの視聴ではそこまで中身にこだわらない。もっとも、スポーツについてはリアルタイムが一番だと思うが。

とにかく、テレビがついていることだけが重要だ。
気づくと私も含めた家族が全員、テレビを見ていないこともある。
電気代の無駄だと思う人もいるだろう。でもたまに見るからいいのだ。

「テレビの音ってうるさくない? 私ならがまんできない」と言う人もいるかもしれない。
でも私はテレビの音をうるさいと感じることはない。
だって、音量を下げればいいからだ。
私がこう言うと、憮然とした表情になって「最近のテレビ番組は存在感自体がうるさい」みたいなことを言って食い下がる人がいる。
けれど私にとっては、それはテレビに何か情念のようなものを込めすぎなのではないかと感じる。
自意識過剰ならぬ対テレビ意識過剰なのではないのか、と。
絵が動いて音が鳴っているだけのもの、部屋のどこかでチャカポコにぎやかにやっている機械のハコを、そこまで念入りに「うるさい」と感じる精神構造のほうにむしろ興味が湧く。
スタバの店内のほうがよっぽどうるさいのだが、そっちは気にしないのだろうか。
テレビのほうがまだ「番組表」がある分、うるささの想像がつくではないか。
なんてことを言うと相手は、ああテレビが好きなんだね、みたいなことを言いながらたいてい引き下がる。
そこで「あなたはテレビ嫌いなんだね。テレビ嫌いのスタバ好きだ」などと返すと確実に機嫌が悪くなるなので、そうだね、くらいの薄いリアクションに留める。



ふと、こないだから読み返している本のことを思い出す。その本の冒頭付近に、こんなことが書いてある。

「実在には3つある」

いきなり哲学か、と思われるかもしれないが、この発言は哲学者ではなく物理学者の口から飛び出したものだ。

われわれが、そこに何かが「ある」と言ったとき、そのありようには3つのパターンがあるという。

1.目の前にコーヒーカップがある。そのコーヒーカップが、物理現象としてそこに存在することが、「第一の実在」。

2.コーヒーカップを見ることで、我々の脳内に電気信号が走り、「あっコーヒーカップがある」と感じることが、「第二の実在」。

3.コーヒーカップにまつわる文化や、あるいはコーヒーカップについての慣習、コーヒーカップをとりまく言語。さらには(そんなおおげさなものがあるかはわからないが)コーヒーカップに関する思想・哲学(?)。これらも「ある」。「第三の実在」。


3だけ特別に見える。1と2の違いがわからない人もいるかもしれない。
言い換えると、1は「私の脳の外に存在している」という意味での「ある」で、2は「私の脳の中に存在している」という「ある」だ。
ちなみに3は「社会・共同体の中に存在している」という「ある」になる。文化、風習、慣習、思想、哲学、宗教と言ったものは、物理的に存在するわけではないし五感で感知することもできないが、確かに「ある」。


1と2を分けて考えるのはなぜか。
たとえば、人間と、人間が飼っている犬と、犬にくっついているノミとでは目の機能が違う。物理現象としてのコーヒーカップを見ても、脳内にうかぶ映像はこの三者で異なる。
人間と犬は比較的よく似た視覚を持っているが、色の識別の仕方が違うので、我々が「赤いコーヒーカップがある」「青いコーヒーカップがある」と感じているものを、犬は別様に感じる。
さらに、ノミは視覚よりも温度を用いて世界を認識している(らしい)。あったかい動物に取り付いて血を吸いたいからだろう。したがって、体温のないコーヒーカップはそもそもあまり「眼中にない」。ほかの障害物と区別ができないのではないかと思う。
人間が「コーヒーカップがある」と言うとき、ノミは「コーヒーカップなどというものはない」と言う。
物理現象としてのコーヒーカップ(1)は確かに存在するが、脳内感覚としてのコーヒーカップ(2)は存在する場合としない場合がある。

物理的に何かが「ある」というだけで、存在論を語ることはできないらしい。

コーヒーカップ(3)の話もしておこう。コーヒーという文化がない国にはコーヒーカップという概念が練り上げられていない。
文化や風習が「ある」というとき、それを決めるのは物理法則でもなければ私の脳でもなく、人と人とが集まって積み上げた歴史である。社会や共同体が時間をかけて「あるということにしたもの」が、世の中にいっぱい「ある」。



「テレビがうるさいかどうか論」に戻ろう。

先ほどの話で、私は、「テレビはうるさくないですよ」という話をしている。このときに無意識に、1(物理法則)と2(五感による認識)だけに話題を限定した。テレビという物理的な存在と、そこに映って鳴っているものの認知のされ方を取り上げて、「音を下げればうるさくないじゃん」とやっている。

しかし、一部の人にとっての「テレビってうるさい」という感覚は、1と2の話ではない。
文化として、風習として、あるいは指向性・嗜好性として、すなわち3の部分でうるさいと言っている。
なのに私が1と2で反論するからむっとするのである。
「テレビよりスタバのほうがうるさいって、そういうことを言いたいわけじゃないのに……」。

テレビがうるさいと言う人は、たいてい次のようなことを言う。
芸能人がひな壇で大騒ぎするのがうるさい。
流行り廃りの話ばかりでうるさい。
中年が若者にすり寄りつつ20年前の音楽ばかり復刻するのがうるさい。
政府与党の政策に反対する言論ばかりでうるさい。

それを私は、「いや、テレビの音量下げればいいじゃないですか」と答えることで封殺している。
実在の3を、恣意的に論点から外している。

ちなみに、私は、「テレビなんて家にないんですよ」「テレビなんてまず見ることがないですよ」と公言するタイプの人がもともと苦手だ。
テレビを見ていない、イコール、代わりになにか高尚なことをしている、とアピールしたい人かなと思う。
テレビというものが面白いと思えない、イコール、大衆文化よりももう少しマニアックでニッチな部門に興味がある俺の偏屈さがかっこいい、とアピールしたい人かなと思う。
「テレビ嫌いムーブ」は総じて小癪だと感じている。

このような過去の積み重ねが私にあったから、逆張り的に、「テレビくらい普通に見ていいんじゃないの?」と、テレビ嫌いを自称するやつらを牽制するようなムーブが飛び出すのだ。
つまり私は、3:文化や慣習の意味で、テレビはうるさくない、そこにあってほしいと思っているし、テレビがうるさいと感じる文化圏の人を遠ざけたい気持ちがある。
しかし、自分の3(テレビOK文化)と、他人の3(テレビNG文化)を戦わせても勝ち負けはつかない。だから代わりに1(物理法則)と2(認知科学)の部分で、「テレビがうるさいなんて物理的におかしいですよね」と、テレビNG派を殴っているのだ。

こうして解き明かしてみると、我ながら少々あさましいなと思う。


***


変わったのは私の髪質なのか,母の記憶なのか,その両方なのかはわからないけれど,「変わらない」と意識すらせず信じ込んでいた何かが,ふと「実は変わっている」ことに気づいてしまった瞬間。
おそらく母は,そしてわたしは,不意打ちのように,変化に直面してしまったのです。
そしてきっと,無意識に,死を連想したのではなかったでしょうか。よりによって,お正月という,変わらぬ家族団欒を確認していたはずのタイミングで。

シリウスのかがやきに安堵を覚える冬/西野マドカ

いただいたお手紙の、ここを読み直して。

私の髪質が変わる・・・1(物理)

母の記憶が変わる・・・2(認知)

だなあと思った。

では3は?

死の連想、だったのだろうか。

脳というのは1と2だけで世界を見ていない。おそらく私たちが常に見ようとしているのは3である。
科学や理屈で1と2だけを解き明かしても、3の部分を解いたことにはならない。
3はときに不如意に訪れる。
3はコントロールしがたい。
3が人の脳のすごみである。
3が私たちを考え込ませる。


冬の大三角も、3種類の仕方でそこにある。豪雪による交通規制も、パックで売っている豆乳鍋のスープも、打ち終わったワクチンのエビデンスも、みんなそこにある。私たちはそれらを各自好き勝手に「ある」と呼んでいる。


参考:



(2023.1.27 市原→西野)