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どうも金大中事件はわからんですなあ

にしのし

おっしゃるとおりで、北海道には金木犀がありません。少なくとも私は子どもの頃から金木犀の香らない秋を過ごしてきました。

だからかな。秋というと、抜けるような青空と、鼻の奥につっこんでくるひんやりとした無臭の風のイメージです。


小さい頃、私の住んでいた付近には焼き芋の車が通らなかった。うちの近所だけかもしれないが、そもそも札幌には、七輪でさんまを焼く文化もあまりなかったのではないかと思う。炊き込みご飯は栗がいいのに、もっぱらサツマイモ。というか、よくサツマイモをふかして上にバターをのせたものをお昼ご飯に食べていた記憶がある。あれ、最初いろいろ持ち方とかむき方とかめんどうくさいんだけど、食べ始めるとうまかった。そして祖母が作るカップケーキという名のなんかすごい膨らんだ、レーズンがいっぱい入っていたおかしと、マドレーヌという名のなんかすごい膨らんだ、上にひまわりのタネみたいなものが一つのっているおかし。これらが室内のにおいを決めていたけれど、外はもっぱら無臭だった。無臭で、山が近くに見えて、山を登っていくロープウェイのゴンドラも、小さいながらにいつもよりはっきり見えた。五感のどれを頼りに思い出しても、秋の空気は透明だった。


そんな私にとって、金木犀に関する最初の記憶はうちのトイレの風景です。

……と言っても、別に、芳香剤がどうとかいう話ではない。

トイレにサザエさんの単行本が置いてあったのですが、そこにキンモクセイという単語が出てきて、それではじめて知ったんですよね。キンモクセイという概念を。



トイレにおいてある本はときどき入れ替わる。誰が入れ替えてたのかな。親父か、祖母か。サザエさんも、何巻と決まっていたわけではなくて、68巻とか、71巻とか、あとたまには「よりぬきサザエさん」とか、「いじわるばあさん」などが置いてあることもあった。キンモクセイが出てきたのはたぶんサザエさんの60巻台くらいか、80巻台くらいじゃないかな。忘れてしまったけれど。

サザエさんの4コママンガは、用を足す間にひとつふたつ読み終えて、トイレを出たら忘れる。そういうのをくり返して何日もかけてひとつの巻を読む。

昔、トイレって小さな図書館だった。……うちだけじゃないよね。

トイレ図書館の本は、どこまで読んだかなんてそうそう覚えているものではない。だから続き物なんかは置くのには向いてない。サザエさんとか、ことわざ事典みたいなのが向いている。空き時間にさっと読んで、またそこに置いておくタイプの本を「トイレ本」と称した方々もいらっしゃるようだ。

「トイレ本」は、まんべんなく読むことはしない。手に取ったときに開くページに偏りがある。最初のページ、真ん中のページ、そして最後のページあたりを見ることが多いわけです。本を読むためにトイレに行くわけじゃないからね。

というわけで、サザエさんのとある巻の、おそらく一番最後に、キンモクセイに関するこのような4コママンガが載っていたのを、金木犀という単語を見る度に今でもしつこく思い出すのである。
(以下、記憶による描き起こし)


記憶によるサザエさん

コマの展開もセリフの細かいところもぜんぜん覚えていないが、とにかく、波平が通勤途中に生け垣のそばを歩きながら、「キンモクセイがにおってきますなあ」と、同じように通勤途中なのであろう知らないおじさんに話しかける。牧歌的なオープニング。

それにおじさんは申し訳なさそうにくびをひねりながら、何事かぶつぶつ言う。「いやー最近とんとテレビを見ていないんで」とかなんとか、とにかく、キンモクセイとは関係のないことを言う。

そして、3コマ目で、「それはどういう人物なんです?」というから、読者のほうも「?」となり、

「どうも金大中事件はわからんですなあ」の一言で、波平がぎょっとした顔をしてオチる。


私がキンモクセイ=金木犀をはじめて知ったのはこの4コママンガだった。におってきますなあ、と言われても、金木犀が花の名前だということを知らないから1コマ目のフリがそもそも伝わらない。おそらく小学生時代のことである。もちろん金大中事件のことも知らない。

でも金木犀と言えば私にとってはこれなのだ。

当時、母にたずねた。「キンモクセイって何? あと、金大中事件って何?」すると母は笑って答える。「あートイレの本でしょ ちゃんと読んでるねえ(笑)」そこで家族一同アハハと終わって、そこで会話は次に進んでいく。疑問は一切解決していないのだが、私だってキンモクセイにも金大中にも特段思い入れはないので、アハハと笑ってそれ以上聞くこともなかった。あるいは聞いたかもしれないが、覚える気がなかった。なにせ札幌にそんな花はないからピンとこないのだ。そこから私が「キンモクセイって、こんな花なのか!」と知るまでにはおそらく10年以上の月日がかかっている。いや、10年じゃきかないかもしれない。



次々と引っ張り出されてくる小さい頃の記憶。トリガーとなったのは金木犀の香り……ではなかった。たまに「五感って記憶を引き出すよね」みたいなことを言うし、私もそうやって書いてきたと思うけれど、今回の記憶については、「キンモクセイ」という単語ひとつが引っ張りだしてきたものだ。そのキンモクセイは私の中で特定の感覚と紐付いていない。虚像、記号。概念だけがあって、体感がないキンモクセイに、私の記憶はきちんと数珠つなぎになっている。

これはどうも「人間らしさ」だなあと感じる。

そんなこともあるのだな。言葉だけでもいいんだな。



じつは、未だに私はキンモクセイの香りがどういうものかを理解していない。モモのようなにおいだろうか。バラのような香りだろうか。それすらも思い出せない。おそらく、今教えられても2週間も経てば脳内の紐付けが解除されてしまって覚えられないだろうし、百合が原公園の温室に咲いているよ(ネット情報)と言われても「それは温室のにおいだよね」くらいのことを、私の脳はきっと言う。私にとってキンモクセイとは、「金大中事件の登場人物のような字面」であって、残念ながら、みなさんが思うシニフィアンとは違ってしまっているのだ。


(2022.10.14 市原→西野)