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何か足すかい、何か引かない

にしのし


いただいたお手紙に、

そういえば,わたしの弟が大学生の時に,部活の遠征のためフェリーで8月の札幌にお邪魔したはずなのですが

と書いて頂きました。

さっそくですがこの1.5行の手触り(テクスチャ)たるや……。

指紋の一つ一つに青春が引っかかってくる感じで、とてもいいですね。


大学の部活の遠征はフェリーなんだよなあ。


ぼくもいっぱい乗りましたよ。北海道から東北の各地に遠征するときにはね。

フェリーと……あと寝台列車。なつかしい。



たった1.5行ですよ。

でも、これまでにぼくが偶々抱えた物語が、ぼくの心に独特の、指紋のような、心紋(しんもん)? とでも言うような、溝とでっぱりを作っていて、それがカシュッと引っかかって、通り過ぎたものを少しひっかけて、胸元にもってくる。

物語は細部ではなくてテクスチャに宿っていて、そのテクスチャがどこにざらついて引っかかるのかは、各人が作り上げてきた造形にそうとう依存しているよなあ、みたいなことを思うわけです。


あとぼくも道警には何度かお中元をおくりましたよ。スピード違反……はそうでもなかったけど……一次停止無視とかで……。なんで農道にあんな標識があるんだよ、みたいなことは当時よく言ってた。今ではちゃんと守ってます。警察官ありがとう。ぼくはほどよくビクビク運転するおじさんになったよ。


***


経験に基づいて事象を解釈すること。

「拡大解釈」という言葉はあるが「縮小解釈」という言葉はついぞ聞かない。言霊的な何かが、「縮小解釈」という言葉の持つ強烈な違和感をぼくに投げかける。ぼくの言語野にとって、「解釈」とは常に事象よりも広がるものなのだろう。解釈が事象を狭めることを、ぼくの心は許さない。

しかし、許さないが、事実として、解釈は事象を切り取り狭めてから適用されるものである。

「あ,いまこれっぽっちの材料から全体を判断/解釈しようとしたな」

五感をフルに用いても、事象の一部分しか探れない人間。

ぼくは鏡を見ている限り後頭部の白髪を抜くことができない。

ぼくはあなたのお手紙を読んでいる限り自分の手紙に向き合うことができない。

一度にみられるものの少なさ。

そのうえで、一部から全体を判断しようとすることは、生き残るために必要な技術である。

そこで脳は俯瞰する力を手に入れる。時間軸と共に情報を累積させることで、「一度に」はみられなかったものを、「何度か」でみようとする。あるいは、「今しか」みていないものの「この先」を考えようとする。

そういえば一部から全体を予測するというのは「検査の理想」でもある。血液検査をするときに人間の体から血液をすべて抜き取ってしまっては本末転倒だ。


全体から → 一部を抜き出して → そこからあたかも全体を見ているかのように「拡大解釈」をする。


そりゃあ、「ちゃうねん。」である。


***


私はまだベテラン病理医ではないのだが、「細胞の顔つき」という言葉のニュアンスはよくわかる。がん細胞にはまさに、顔つきとしかいいようのない、短い言語では言い表せないような独特の雰囲気がある。

國松淳和先生がよくいう「短い言葉で言い表せたら言うわ。短く言えないから本にするんだよ」。言い得て妙である。さすがゲシュタルト診断を書籍で語れる数少ない人間のひとり。

病理医が細胞の顔つきから診断を行い、優れた内科医が患者のプレゼンテーションのふんいき全体(ゲシュタルト)から診断を行うことは、


全体から → 一部を抜き出さずに → あたかも全体を見ているかのように「解釈」をする


という行為だ。今までに述べてきた「検査の基本」、すなわち「一部を拡大解釈し、全貌を推測する知的行為」とは趣が異なる。「全貌から全貌をみる」。なんだかトートロジーである。

いかにも「名医」って感じがするだろう?

でも、実際には、「全体を見ているつもりでもやっぱりそぎ落としてしまっている」。

「本能的に情報を絞ってしまう脳」を、意図的に操作して、「縮約されきっていない生の情報も含め、なるべく情報をそぎ落とさずに全体をながめて、診断を浮かび上がらせ」ようとする。このとき、安易に言語化しないことも大事だ。核の大きさやクロマチンの量、というように、変数を固定するとそれだけ情報がそぎ落とされてしまう。

けれどもやっぱり、「そぎ落としてしまっている」のが人間である。思い込みによって引っ張られる診断もある。


細胞の顔つきや患者の顔つきをみて行う診断は、「さくっと一時保存する」ことが肝要だ。そしてこだわりすぎない。手首を聞かせて黒板を叩くようにパアン! と診断名を書いて、ただしそれが絶対だなどと信じない。軽く採用して軽く棄却できることがコツである。

「顔つき診断」は高速で仮説を立てる上で最強に役に立つ。しかしそこから検証する段階ではもう少し緻密な作業が求められる。なにせ、テクスチャの中から無意識に拾い挙げてしまう情報は、それまでの経験により構築された「心紋」にひっかかったものばかりだからだ。どうしたって偏る。物語にひっかかる場所が、人によって異なるように……。



あなたの言った「AI」。あるいは機械学習による診断。この場合、彼ら(?)は学習によって、心紋ならぬ「電脳紋」を有しているが、人間のそれと比べるとだいぶおおらかで、大量の情報をいっきに、あまり選び取らずにごっそり引っかける。そして「全体像から全体像を予測」して、容赦なく黒板を叩く。バアアン! 稲妻のようなスピードと迫力。

でもそれはやっぱり「仮説」なのだけれど。

その「仮説」を「仮説だと気づいていない人」、あるいは「仮説であっても人間の結論より頼れるやんけと思っている人」が、大量にNature Machine Intelligenceあたりに機械学習がらみの論文を書いているのが、今。


なんかまだ発展しそうな雰囲気があるでしょう? ぼくはまだ2合目くらいだと思っている。この領域は。ドーナッツの穴、おにぎりと米粒の隙間。


(2020.7.2 市原→西野)