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山際の向こう、2秒の先に(7) 技術を間に置くことで

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新城健一とチョーヒカルさんのトークはどんどん盛り上がっていった。


VR(バーチャル・リアリティ)ゴーグルを使ってカラダの中を見ることは、単純に「楽しい」。ミクロの探検隊ならぬマクロの探検隊だ。子どもの心を持った大人は、みなテンションが上がってしまう(前回のブログのていたらくを参照のこと)。

そして……。

新城の説明するVRが単に「楽しい」だけのビックリオモチャではなく、「現実に役に立つ」ものだということが、動画を見進めるにつれてだんだん見えてくる。

キャッキャワイワイ視聴しているうちに、「なんだかためになるな、これ……」と思えてくる。

チョーヒカルさんが跳ね回って喜ぶ映像の端々からは、「楽しいだけではない、もっと根源的なうれしさ」が感じられる。

「凛として背景にある、使命感」。そういったもの。



医療現場で、VRがどのように役に立つのか?

一例として、教育的な側面を考える。

手術のような、複雑で失敗が許されない手技を医者が修得するときに、VRを使うことで、「実際にベテラン術者の目線に成り代わったら臓器がどう見えるか」を体験・実感することができる。

現場を知るぼくからするとこれは相当強力だと思う。

従来の研修方法では、上級医(指導者)が研修医(初学者)に向けて、「ほら、ここからの角度で患者の腹の中を見てみろ」と言ったところで、二人がまったく同じ目線で患者を見るということは不可能だった。いくら顔をぴったりくっつけても、生身の人間が二人同時に同じ角度でモノを見ることはできないし、同じところに手を伸ばすこともできない。

我が国の法律では、同じ所に手を伸ばして触れあって「あっ」となるのは、図書室もしくは古書店で本を探す高校生の二人にのみ許された行為である。手術中におっさん同士でそれをやったら、50万円以下の罰金もしくは3年以下の禁固刑だと言われている。それほど、「他人同士が同一の目線を共有すること」は難しい。

ところがVRなら、教えるほうと教わる方が全く同じ目線を共有することが簡単にできる。同じ所に手を伸ばすこともできる。

これは、平成に手技を教わってきたぼくからすると、普通に「うらやましい」。令和の医術トレーニングの進歩はめざましい。

教育目的以外にも、多くの活用法が語られた。詳しくはいずれ公開するはずのアーカイブを見てほしい。なかなか公開されないが、別にじらしているわけじゃない。そもそも、アーカイブは無料で出すことがほとんど決定しつつあるし、じらす意味もない。実はマスターテープを持った現場スタッフの方が、次の仕事が忙しいためか一切連絡が取れずデータが手に入らな以下略



各人の距離が離れていく時代に、仮想世界を通じて、人々の間にあるギャップを埋めていくような、テクノロジー。

こういう「医療のカタチ」はいいなあ……。


***


VTRの最後、印象的だった新城健一の言葉。

新城「今、政府などは、モノづくりをするほうにはけっこう手厚く助成金などを出してくれます。でも、新しく作られたモノを使うほうの人……新しくできたモノを、これって役に立つかなーどうかなーって、チャレンジして使ってくれる人に対する支援ってのも、本当はとっても大事で。」

新城「作る人と使う人。両方がいて、はじめて未来って現実になると思っています。」

新城「使う側の人の声って、すごく大事にしないといけないなーと思うんです。」


そうか、あなたは、作る方だけれど、使う方のことを思うのか。

それはいい俯瞰だなあ。



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ここでカメラはキーステーションに戻る。


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「VR~」

「超聴診器~」

「モニタ付き月経カップ~」

「胎児用・小型超音波モニタ~」

「骨盤底筋トレーニングアイテム~」

「精子運動量測定アプリ~」


次々と繰り出される技術の数々。これらはいずれも、医療の現場で、「もっとああだったらいいのに」「もっとラクに何かができたらいいのに」を解決する先端テクノロジーのカタマリだ。

世が世なら「ひみつ道具」と呼ばれていてもおかしくなかったものばかり。

新城健一はあまり見た目がドラえもんっぽくない。どちらかというと出来杉君(※20年後)と言った見た目だ。

カモえもん



なんでもないです




ここからの対話は、「最先端のセンサー技術、医療テクノロジーを前に、二人がどんどん知性を膨らませていく」という、とてもぼく好みの展開になった。


浅生鴨さんが、なにげなく、「心臓の音を聴く……というか、視る……これはもはや視診器でもあるのか」みたいなことを言う。


新城健一は、くり返し、「作る方も大事だが、これらを使う人からのフィードバックが重要なのだ」ということを語る。


浅生鴨さんが、「タブー感があると技術は進まなくなるけれど、テクノロジーを目の前にした我々は、お互いの『差』を超えて新しいコミュニケーションができる」と言う。


新城健一はそれに強くうなずきながら、フェムテックをはじめとする技術の新たな使い途について次々と魅力的な提案をする……。



このセッションでの新城健一のプレゼンテーションは完璧だったと思う。単に新しい技術を紹介するだけに留まらず、その技術を「人と人の間に置く」ことで生まれるあらたなコミュニケーションのカタチを、会話の端々にきちんと浮上させながら、論点を明確に、しかも聴衆に飽きさせずに展開した。

そして浅生鴨さんがまたすばらしかった。事前の取材がとにかく幅広く、奥深く、さまざまな技術開発者の思いをきちんとすくい取っていた。「通り一遍の取材ではそこまで聞けないだろう」という開発秘話や作り手の思いを、見事な司会役として、新城健一の魅力的なトークの合間に差し込んでいく。

新城健一がしばしば、

「まさに、今、浅生鴨さんがおっしゃったように」

と口にした。このときの彼の、はずむような声色が妙に心に残る。彼もきっとうれしかったのかもしれない。聞いているぼくだってとてもうれしかった。


このセッションには調和があり、可能性があり、このまましゃべり続けていればまだまだアイディアが出てくるのではないかと感じさせる、「未知に対するゆかいな不安さ」がにじんでいた。「彼我の差があっても、スキマやズレがあっても、そこにアイディアが爆発すれば何かが大きく変わる」ということを、彼らは最終的には、「ソファでただ語る形式」で我々に魅せてくれた。ぼくはこの構成にほんとうに感心したのだ。


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浅生鴨「さ、ではここでハッシュタグで寄せられているツイートをいくつか紹介します。」

浅生鴨「えー、『鴨さんがまともで安心です』。」

浅生鴨「……えへへ、いや、まともですから~」

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(2020.9.2 第7話)


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