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二日前

ニッシー:

「Bar レモン・ハート」のカガミさんの話はすばらしいですね、カガミの前の女性がお手洗いから出てきたときの一コマ、本当に見事というほかない……。

レモンハートはBSフジでドラマ化されてますが、マンガ原作ドラマの最高峰ではないかというくらいいい感じの空気感なので、機会があればぜひ見てみてください(うちにはBSがないので実家で録画してもらっています)。松尾諭はレモンハートの松ちゃんをやるために生まれてきたんだと思います。動いてるところを見て欲しい。あれは松ちゃんだ。

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将棋から囲碁につながっていくきっかけが「千日手」→「百日紅」というのは美しい。カウントダウン。手から紅。読んだ瞬間におおっと思ったし、「そこにひらめきがあるんだ!」となった瞬間の、シナプスのはしゃぎっぷり。


脳っておもしろいね。他人がひらめいたことを見て興奮するというのはいったいどういう仕組みなんだろうか? 興味深い。

自分がひらめいたときに快感を覚える仕組みがあることまでは納得できる。報酬系回路の使い途として理解できる。もし、行く末に新たなルートを見いだしたときにうれしいと思う人類でなかったら、探究心は退化して消滅してしまっただろう。そしたら今ほどの文明は築けていなかったのではないか。そこまではわかる。けれども、自分ならぬ他者のひらめきに興奮するってのはいったい何の役に立つ? もし、他者のアイディアに感動できる人類でなかったとしたら、やはり、感情のいずれかが今あるものとは異なっていたのだろうか。種の生存にとって、他者に感動する仕組みは有用だったのか。だから今こうして、ぼくは他者(あなた)のひらめきに感動しているのか。

他者のひらめきに感動するってのは結局どのように起こっているのか。ミラーニューロン的仕組みなのかなあ。いつからそうなったのか。サルは他者のひらめきを褒める? どこで必要なのか。冒険の場、狩りの場、社交の場。なぜ必要なのか。

連歌が流行った理由と、廃れた理由のことを考える。


囲碁の話題と関係ありそうでない、ひらめきと共感と快感の関係について思いを馳せながら、理屈っぽいのが悪徳だった時代は確かにあったな、今はどうだろう、主人公は確かに知的になったかもしれない、けれども「主人公ではないぼくら」にとってはどうだ……と、それこそ陣取り合戦のように思考を右往左往させていく。あなたの投げかけた質問のことを考える。

創作物の主人公は,必ずしも「考えなしに突っ込んでいくタイプ」ではなくなりました。
世の中がこれを受け入れるターニングポイントはどこにあったのかと,書店に並ぶ本を前に,ふわふわと考えていました。

日本でいうと月9の主人公が知的になったあたりかな。確かに空気は少しずつ変わっていたように思う。ああ、吉田栄作が木村拓哉になったあたり、とか? これはあまり共感されないほうの「ひらめき」かもしれない。


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今では書店のビジネスコーナーに行けば「戦略/ストラテジー」「分析」の文字がタイトルに華々しく舞っています。

書店の人が以下のようなツイートをしていたことを思い出した。

イノベーションという言葉がインフレを起こして書店の社会書棚を埋め尽くしたときのことを思う。いまや戦略、ストラテジー、分析、みたいな本は確かに増えね。そして最前線の書店員さんからすると、目立つのは「デザイン(思考やマネジメント)」。

へぇー、「デザイン」と「思考やマネジメント」が並列なんだな! おもしろいなあ!

などと、よくわからないところで何度もシナプスを発火させている。どのシナプスがどこと連携して発火しているのかはまったく予測できない。「サルスベリ 囲碁」で検索して出てきた碁石の置き方がまったくわからなかったこととそっくりだ。どこかが発火して、どこかにけもの道ができて、どこかに干渉があって、衝突があって、いつのまにか陣地がぼんやりとできていく。けれどもはや一つ一つの発火が複雑系の一部として溶け込みすぎていて、一手ごとの意味がうまく読み取れない。

これって思考の進化と一緒だったりする?

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「知的な主人公」について。

知的な主人公、あるいは知的ポジの脇役というと、かつては脳内コンピュータがカシャカシャチーン! すげぇ計算ー! くらいだった(語彙…)。でも今はもっと複雑だ、それこそ囲碁の盤面のように「戦況を俯瞰して、戦術をデザインして……」みたいになってる気がする。

どんどん複雑になっていくね。

囲碁のことはぜんぜんわからない。思考のこともぜんぜんわからない。両者は似ている気がする。月9の主人公が囲碁の棋士になる日も近い。そういえばぼくは最近、精神医学と脳科学と哲学との境界がいよいよわからなくなった。ぜんぶ共通のナラティブがあるのだということを、40を超えてようやく理解した。学生時代に精神科医を目指していた友人や、高校時代から哲学をやろうと決めていた友人は、10代の終わりにこの風景を見ていたのか。それはすごい、すばらしいことだ、かもしれませんね。他人のひらめきにぼくのシナプスが発火する。何度か発火させられてmindのけもの道ができる。反復をくり返しているうちにどこかのタイミングでconsciousnessとなる。ぼく自身はそれをintelligenceなのかもしれないと勘違いしている。でも本当は単なるニューロンどうしの陣取り合戦に過ぎないかもしれない。囲碁のことがわからないように。思考のことはわからない。囲碁を学ぶべきか? いや、哲学と脳科学と精神医学だろう。その先に肉体の病理学のヒントがあるかもしれない。肉体? 脳も肉だが?


そういえば今日のタイトルですが、10年ほど前にぼくが書いた小説の名前です。もはや一文字も書けなくなったかつての文豪の奥さん(後妻)が、文豪のゴーストライターとなって小説を書こうとするんだけど、「前の奥さんのようにはうまく書けなくて」、原稿を取りに来た担当編集者に「あなたがやってきたってことは締め切り二日前ってことですよね? 困っちゃうわ。私はまだうまく書けないの。」と答える、という話です。深夜、古い日本家屋の庭で、サルスベリが、無音の遠雷に照らし出されます。

探してももうない。インターネットのシナプス接続はこの10年で改組されてしまい、かつて持続的に発火していた領域は埋没してしまった。脳もインターネットも意外とホメオスタシスを達成できていない。知性intelligenceは反復しないとunconsciousnessに溶けていく。それもまた心mind、あるいは心(英語わからない)なのかもしれないが。

(2019.12.13 市原→西野)